なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

歴史叙述の困難を物語るメタフィクションーローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』ー

 2013年、[第4回Twitter文学賞〜2013年、私が選んだこの1作(海外編) - NAVER まとめ]、海外部門第一位の本作、ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』を読んだ。本作は、ゴンクール賞最優秀新人賞受賞作であり、リーヴル・ド・ポッシュ読者大賞受賞作らしい。

 なるほど、受賞の凄さが分からん……すみません。

 フランス文学(というかブンガク全体)について疎いので、  その権威にひれ伏す事も出来ず、ただ日本でも話題になっているというので、興味本位で読んだ。そういえば、マリオ・バルガス・リョサが「ギリシャ悲劇にも似たこの小説を私は生涯忘れないだろう。(……)傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と評しているので、その面白さは折り紙付きなのだろう(なんて権威主義的なんだ!)。

 僕がこの本を一言でまとめるならば、「歴史叙述の困難を物語るメタフィクション」だ。それを以下に述べる。 

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 

 

 ノーベル賞受賞作家マリオ・バルガス・リョサを驚嘆せしめたゴンクール賞最優秀新人賞受賞作。金髪の野獣と呼ばれたナチのユダヤ人大量虐殺の責任者ハイドリヒと彼の暗殺者である二人の青年をノンフィクション的手法で描き読者を慄然させる傑作。 

 

 タイトルの『HHhH』は、「Himmlers Hirn heisst Heydrich」=「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」の頭を取ったものである。想像を喚起するタイトルだ。「金髪の野獣」「死刑執行人」と呼ばれた、ユダヤ人虐殺の遂行者であり、ナチズムの体現者、チェコスロバキア(ビネに敬意を表して僕もこう呼ぼう)の統治者、ハイドリヒ。危険すぎる男。ハイドリヒとは何者だったのか。

 ビネは興味深い事に作中でタイトルについて言及してる(そしてこの書物の特徴は、歴史を叙述することへの、ビネの苦悩と戦いを克明に描写していることにある!)

 

僕がこの本を書くことを思いついてから、もう何年にもなるけど、〈類人猿作戦〉以外のタイトルを考えたことは一度もない(仮に、読者がお読みになっている本の表紙に別のタイトルが印刷されているとしたら、このタイトルが、どうやらSF的すぎるとか、ロバート・ラドラム的すぎるとか思った編集者に僕が譲歩したことがわかるだろう)。 頁118

 

 この『HHhH』の装丁なのだけれど、邦訳版も良いデザインなのだけど、実は英米翻訳の方が非常に示唆的なのだ。本の語りかける強度という側面から切り取ると、こちらの方が圧倒的に強い。

  

                                                 f:id:nkntkr0:20140330181858j:plain

 

 ナチの制服を着た人物の顔を覆うように重なった「H」、フォントの異なる「H」の羅列、これが何を意味するのか。

 

ハイドリヒ、ヒムラーヒトラー……いくらなんでも、こんな幼稚な語呂合わせをしたりはしなかっただろう。しかし、ホロコーストのH……、これなら彼の伝記の不吉なタイトルとして充分使えたかもしれない。頁44 

 

 顔を覆われているのは3人のナチ高官、そしてあぶり出されるホロコースト。あまりにもメッセージ性が強い。

  

 タイトルだけでも語るに尽きない。

 

 それでは、本作の主人公はハイドリヒなのか?ビネは明確に否定する。この本の主人公は暗殺者であるガブチークとクビシュ。そしてナチへの抵抗を示したレジスタンスやそれを擁護する、あるいはただ数値として処理される歴史では語られない市民なのだ、と。しかし、この本の主人公はまだ、いる。それはビネであり、ビネが(苦悩しながらも)語るフィルターを通して1942年のプラハを追体験する読者自身である。

 ビネは苦悩する。読者は追体験する。恐らくビネは我々に語りかけるだろう。さあ、次はあなたの番だ、と。

 

 かなり乱暴に本書を説明する。ハイドリヒを暗殺する命を、チェコスロバキア亡命政府より受けたパラシュート部隊のチェコ人ガブチークとスロバキア人クビシュを中心とした歴史小説だ。

 しかし、本書は前述した通り、通常の歴史小説とは一線を画している。歴史小説を乱暴に2パターンに分けよう。一つは講談的、大衆文学的なる歴史小説。つまり、筆者の想像力を存分に発揮する、英雄奇譚、あるいは悲劇的。もう一つは実証主義的立ち位置から正確に歴史を描こうとする歴史小説

 ビネはその2パターンで言えば、後者に属する。そしてとりわけ、後者の中でも異端、独特なのは、作者であるビネの語りが幾度も挿入され、しかも、その語りは歴史叙述への苦悩と闘争に溢れていることだろう。小説はビネの独白と、当時が交互に織り込まれるという独特なスタイルで進行する。ユニークな試みだが、危険な賭けと言っても良い。「語りが挿入されること」は、ともすると小説の興を殺ぐことになるからだ。我々日本人は、特に歴史小説になじみがある者にとっては、このことをよく知っている。司馬遼太郎のそれだ。物語を傍におき、随筆を行う。「実際に筆者が其処を訪れた際に……余談だが……云々」ただし、司馬遼太郎のそれともまた異なる。繰り返される現代と過去の断章の相互干渉こそがこの本の特筆すべき点だから。

 

 ビネが留意し、苦悩するのは歴史叙述の困難性についてだ。ビネはある種の信念に縛されている。歴史的事実に忠実でありたい、という信念。そしてそれを作中で吐露する。しかし、歴史的事実に対して想像力を排除する一方で、ある種の描写に対しては想像の限りを巡らせる。そして想像すること、物語ることについて自ら断罪する。

 

 そもそも歴史とは、歴史的事実とは何か。偉大な歴史家、E・H・カーの言葉を借りれば、「歴史は、現在と過去との対話」である。大雑把に言ってしまえば、「歴史とは解釈」なのであり、歴史とは、現在は過去を投影し、過去は現在を投影するという、相互干渉的な行為なのだ。その意味では歴史とは主観的なものである。もちろん、歴史学を科学たらしめるのは、ポパーの言うところの反証可能性であり、論理整合性である。さて、歴史学、歴史哲学の話となると、その営みを追うことから始めなければならないし、ここではこれ以上は不要だろう。

 

 ビネは倫理的に、正確性を持って歴史的事実を描写しようとし、その苦悩と闘争を小説内に入れ込んだ。しかしながら、その苦悩、闘争、葛藤を担保とすることによって、この小説が歴史的事実に即しているとの保証にはならない。言い換えれば、ビネがいくら小説内において苦心しようとも、それが歴史的事実を描写することを保証しない。そしてこれについて、恐らくビネは自覚的であったであろう。彼はガブチークとガブチークの行為を文学に変換する、と明確に書いているのだから。これこそが歴史叙述の困難をめぐるメタフィクションと僕が評する理由だ。 

 彼は、精緻な描写と一次史料やその他テクストを以て歴史的事実を文学・フィクションにおいて表現可能であるかどうか、という疑問を自らに課し、我々に投げかけている。

 司馬遼太郎は、その実証性に重きを置きながら小説を描く方法とエンターテインメント性で評価を獲得しながら、一方でその実証性に重きを置くことで批判の対象となることがしばしばある。それは、精緻であればあるほど、誤読や史料批判の不徹底などにより起こりうる、些細な事柄からともすると重大な事柄までをミスリードしてしまう危険性を孕んでいるためである。

 

 以上が、僕が本書『HHhH プラハ、1942年』を読んで浮かび上がった像だ。他にも本書には色んな角度から切り込めるだろう。

 文学史的な意義については、語るに足る知識を持ち合わせていないので僕の出る幕ではない。小説内でクンデラウエルベックを参照、言及していることからも問いを発しているのだろうけれど。

 

  ここまで述べたのだけれど、一般的な文学的価値があるかどうかの判断材料について、僕は語ることが出来ない。だけど、『HHhH』は何かしら語りたくなる小説だ。僕の心を喚起すると言い換えてもいい。なるほど、他にも多くのブログや書評でこの小説は言及されている。多くの人が語りたくなる書物。それはつまり、バルガス・リョサの評する「偉大な書物」が故なのだろう。

 

 歴史小説と随筆のハイブリッドであるという見方だけだと勿体ない。この本が投げかける意味について、私たちは大いに語り、「解釈」が可能であり、現代においては「解釈」を免れないのだから。歴史、あるいは歴史小説に語る時に我々が語ることの意味、その点で本作はアクチュアリティーを獲得している。

 

 ビネの次の作品を心より待っている。どう打って出るか、楽しみなのだ。

 

 ……やっぱり、『バウドリーノ』読むべきなのかしら。