なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

さあ、発車しようぜ。 山本周五郎『季節のない街』

“風の吹溜まりに塵芥が集まるようにできた貧民街”で懸命に生きようとする庶民の人生。――そこではいつもぎりぎりの生活に追われているために、虚飾で人の眼をくらましたり自分を偽ったりする暇も金もなく、ありのままの自分をさらけだすしかない。そんな街の人びとにほんとうの人間らしさを感じた著者が、さまざまなエピソードの断面のなかに深い人生の実相を捉えた異色作。

 

山本周五郎『季節のない街』を読んだ。このもやもやした、なんともいえない腹の底にどろっとする感覚。憐れみのような、怒りのような、ぽっかり穴の開いたような、しょうがねえな、そんないろんな感情をごちゃ混ぜにしたようなものが横たわって仕方がない。読後感、なんとも言えない灰色のような、風景が見えて、そこには季節も、色も、居場所も、過去も現在もないような街があった。ただ、その中に一点、光が射すような場所を見つけられた。そんな気持ちになった。読んだら、忘れられないような一冊。

 

季節のない街 (新潮文庫)

季節のない街 (新潮文庫)

 

 

なんとも言えない、どろっとする感覚。ぼくはこの感覚を明確に覚えていて、それは4年前に山谷を歩いた時のことだ。山谷という場所は、いわゆる日雇い労働者の街、ドヤ街だ。山谷は、現在住所地名としてはもはや無い。ここらへん一帯をぼんやりと山谷というらしいが、恐らく名前をつけなくてもそこを歩けば、 ああ、ここいらは何となく雰囲気が違うのだな、というのが感じられる。今でも忘れることができない。微かな瘴気が鼻をつんざく。 界隈の空気が変化する。アンモニア臭がこびりついて離れない。ある意味では、無漂白の生活というものがそのままにある場所だ。

 

東京というイメージと似つかわしくない、山谷と言うこの場所は、やはりこの2018年にもなって、時代の移り変わりからすこし取り残されたような景観をたたえている。

 

「貧民街 」という言葉で安易に接続してしまったのかもしれないが、それでもこの景観、臭い、街歩く人々の濁った目は、おそらくこの架空の『季節のない街』にも通じるのだと思う。ぼくは、この「貧民街」を総体として見ていたが、山本周五郎はその「貧民街」に住む一人ひとりに眼差しを向けていて、その一人ひとりの日常、人生の救えなさ、やるせなさ、不条理への憐れみや怒り、それでも訪れるいっときのユーモア、あるいは、人間の狡猾さ、残酷さ、卑屈さ、懸命さを書いている。

 

社会がどれだけ変化しても、変わらない場所や「街」はある。山本周五郎は、あとがきにこのように書いている。

 

<ではなぜこの「街」という設定をしたかというと、年代も場所も違い、社会状態も違う条件でありながら、ここに登場する人たちや、その人たちの経験する悲喜劇に、きわめて普遍的な相似性があるからである。>

 

だからなのか、この小説は出版された1962年から56年経った今も色褪せない。実際に、ここに書かれているテーマは、貧困を軸として、飢餓、乞食、近親相姦、スワッピング、母子家庭、知的障碍、ルッキズム、男尊女卑、右翼と多岐にわたる。貧民街を取り巻く不幸は、様々だ。

 

『季節のない街』は全15の短編からなるオムニバス形式の小説で、その幕は『街へゆく電車』で開ける。この『街へゆく電車』は上記の知的障碍の子を持つ親子の話。電車バカと呼ばれる六ちゃんが、自身が空想の中で創り上げる電車の運転手となって、その「街」へと行くことから『季節のない街」が始まり、それぞれの短編で主人公を変えながら物語が続いていく。それはまるで、運転手の六ちゃんが、飢餓や近親相姦、ルッキズムといった各駅に停まるよう。空想の電車のターミナル駅はどこにあるのだろうか。

 

ちなみに、『季節のない街』は黒澤明監督によって『どですかでん』というタイトルで映画化されている。映画の方でも、この知的障碍の子=六ちゃんの話から幕が上がる。黒澤明監督の初カラー作品ということで知られているが、商業的には残念ながら振るわなかった。ただ、便利な時代になったものでyoutubeを見てもらえば一発でわかると思うけれど、そのインパクトは凄まじく、これが40年前の作品だとはとても思えない。ちなみに、原作のトーンは灰色のイメージだけど、それとは真逆に映画は原色系が印象的。

 

※余談だけど、ウェス・アンダーソン監督『犬ヶ島』にも、『どですかでん』のイメージが色濃く反映されている。というか、犬たちが隔離、捨て去られるゴミ島は『どですかでん』の舞台そのものだ。

 

どですかでん

どですかでん

 

 


どですかでん(プレビュー)

 

どですかでん」という擬音は主人公の六ちゃんが空想の電車を走らせる時の音で、「どで、すか、でん」とゆるやかに走り出し、調子がつくと「どでどで、どでどで、どですかでん」と勢い良く走りだす。この「どですかでん」という擬音がよくある「ガタンゴトン」ではないところに、山本周五郎の感覚の鋭敏さを見て取れる。そして、それをタイトルとしてピックアップした黒澤明もまた然りというところだろう。

 

『季節のない街』は全編を通して救いがない。『がんもどき』のかつ子、『プールのある家』の子供、『倹約について』の3姉妹。誰も報われない。だけど、その中に、ほんのすこしだけ光が差し込む。その瞬間が、とてつもなく美しく感じてしまう。

 

ちなみに、この中では「ビスマルクいわく」がコメディ調で唯一笑える。右翼の先生が弟子を取ってからの生活を描くのだけど、右翼の先生、全然活動せずに無為徒食。金の無心ばかりで日々をだらだら過ごすけど、言うことだけは一丁前。2018年の現代でも、どこかで見聞きしたことだ。

 

 

山本周五郎は、「貧民街」に生きる人々、つまり、居場所を失った者たちの最後の居場所での生活を通じて、人間とは何か、ということを語ろうとしたのだと思う。追いやられ、虐げられ、時には生きることそのものが苦痛であるような人々。彼らが生きることに、「人間賛歌」という容易い言葉では足りない「何か」がこの小説には込められているように思えて仕方がない。生きていればいいことあるさ、なんてとてもじゃないが言えない。だけど六ちゃんのように、こう言おう。

 

しゃあねえな、もうこいつ(電車)も古いからな。さあ、発車しようぜ。

 

それは、どうしようもない人生を受け入れ、諦め、それでも日常は前に進み、そこに一点の光がある可能性を見ていくということ。

 

解説の開高健がいうように、こころ滅びる夜にゆっくりと読まるべきものの一つ。