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『人新世の「資本論」』年末年始読書2020~2021その3

果たしてこのタイミングで年末年始と呼べるのか。ともかく、読んだのは年末年始なので今回を限りにこの表題は打ち止めですね。

 

今回読んだのは、斎藤幸平『人新世の「資本論」』です。ちょうどNHKの「100分de名著」でもマルクスの『資本論』は取り上げられてましたからね。乗るしかない、このビッグウェーブに。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

なぜいまマルクスなのか、資本論なのか。

だって、働けど働けどわが暮らしなお楽にならざり、じゃないですか。ぢっと手を見るじゃないですか。格差社会、能力のない人間は低賃金でOK、努力できないのは本人のせい、果ては障害も病気も自己責任に帰結される、そんな価値観で覆いつくされている日本社会なので、それを迎え撃つ言説を期待するじゃないですか。ふざけんなという狼煙を期待するじゃないですか。それがマルクス資本論というのには期待するじゃないですか。

 

そういえば2020年前半には資本論関連の著作で白井聡『武器としての「資本論」』も出版されましたね。時代の機運が資本主義(の限界)や資本主義に覆いつくされた現代社会の違和感について考えることを後押ししているのではないでしょうか。

 

ぼく自身もこちらの『人新世の資本論」』と合わせて『武器としての「資本論」』は読みました。本丸のマルクス資本論』に挑戦するのは難解すぎてお手上げ状態なので入門書でお茶を濁そうという算段です。それではやっていきましょう。

 

だいたいこんな話

人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。 気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。 それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。 いや、危機の解決策はある。 ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。 世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!人新世の「資本論」 – 集英社新書 (shueisha.co.jp)

ちなみに章立てとしてはこんな感じです。

第1章:気候変動と帝国的生活様式 
第2章:気候ケインズ主義の限界
第3章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章:「人新世」のマルクス
第5章:加速主義という現実逃避
第6章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章:脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章:気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

 

新書ですが、およそ365Pというしっかりとしたボリュームなので全部について書きだすとキリがないので、全体の感想やまとめと個人的に興味深かった第6章の欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズムについて取り上げようと思います。

 

人新世とマルクス

まずは全体の感想とまとめから。

『人新世の「資本論」』の全体的なテーマ。それは地球温暖化を食い止めるには、いまの資本主義というシステムではダメで、ではどうするのか?

マルクスが到達した「脱成長コミュニズムというシステムにあるのでは?というとことです。

 

パッと見て、かなり大上段に振りかぶった構想だな、とぼくは思いましてね。というのも、環境問題も労働問題もマルクスも表面上は繋がりが見えないのですから。

言ってしまえば、最初の導入部を読んでる段階では、ぼくの心の中の関暁夫が「この理論、信じるか信じないかはあなた次第です」とニヤリとつぶやいたものです。かなりアクロバティックな紐づけをしているな、と。

一見すると危うい紐づけに思える構想を、快刀乱麻を断つような論理展開で解きほぐす手法は見事です。前半部分での僕の心の中の関暁夫は読み進めるうちにいつの間にかどこかに行ってしまった。

 

また、想定されることの一つである、共産主義社会や社会主義は困窮を招いて失敗に終わっているじゃないか、という指摘への反駁も用意されています。とはいえ、全体を見てみるといくつかの点で批判的にならざるを得ないですが。これについては後述します。

 

さて、簡単にまとめてみましょう。

 

耳慣れない言葉である「人新世(ひとしんせい)」ですが、由来はノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが提唱したもので、「地質学的に見て、地球は新たな年代に突入した、それが人新世であり、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」という意味。

 

人新世では、とりわけ、人類の営みによって温室効果ガスのひとつである大気中の二酸化炭素の排出量が加速度的に増えており、異常気象や地球温暖化の原因となっています。

 

二酸化炭素排出量を減らすには資本主義経済の元での経済成長では二酸化炭素排出を十分な速さで削減するには不可能であることが本書の第二章で示されています。他にも科学技術の発展に期待することの困難さなどが全体の前半部分で割かれています。

 

では人新世での地球温暖化に立ち向かうにはどうすればよいのか?

そこで第四章「人新世」のマルクスの章において、資本主義批判とポスト資本主義を考えるためにマルクス資本論を持ち出すわけです。これこそが『人新世の「資本論」』の主題だといえるでしょう。

 

特にカギとなるのが「コモン」コミュニズム「アソシエーション」という概念です。

なぜいまマルクスなのか、という視点にも「MEGA(マルクス・エンゲルス全集)」という国際的プロジェクトが進んでおり、そこに今までになかった新しい視座があると著者は述べています。

その視座とは、今までのマルクス像であった「生産力至上主義」からの大転換「脱成長コミュニズムであり、著者の試みは、人新世での環境問題に立ち向かうためにマルクスが到達した「脱成長コミュニズム」を理論化、実現を構想することにあります。

このようなことが本書の全体の流れとなります。その流れの中でマルクスが提示した概念である「価値」と「使用価値」、「自然的物質代謝」などを用いて議論を進めていきます。

 

この中で「価値」と「使用価値」について特に触れる機会の多い第六章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム について考えてみたいと思います。

 

欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム

毎朝満員電車に詰め込まれ、コンビニの弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら、連日長時間働く生活に比べれば、はるかに豊かな人生だ。そのストレスを、オンライン・ショッピングや高濃度のアルコール飲料で解消しなくてもいい。自炊や運動の時間が取れるようになれば、健康状態も大幅に改善するに違いない。

私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働きすぎた。一生懸命に働くのは、資本にとって非常に都合がいい。……p267

悲しみに溢れる文章ですね。これを書いているのは休日なのですが、平日はいつもいつもこんな感じです。労働!飲酒!いつの間にか終わっている休日!これが毎日!それはもう絶望しか感じないじゃないですか。世の中に跳梁跋扈するブラック企業、まさに現代の奴隷制。じつはマルクスも資本主義に生きる労働者のあり方を奴隷制と呼んでいたとのこと(p253)。

しかも労働者は使い捨て、「お前の替わりはいくらでもいる」という言葉も労働者を追い詰めるありふれた言葉になっています。

第六章が面白いのは、これまでの章で環境問題を中心に扱っていたところに、労働問題を置いたところにあると思います。それがまさに自分が置かれている状況と重なり、リアルなこととして捉えられることができるようになったからでしょう。

(前半の章でも、グローバル・サウスの問題に触れていましたが、それを近くのものとして捉えると第六章につながるかと思います)

 

他にも「使用価値」と「価値」を用いてブランド化や広告にかかるコストなど、希少性を高めるための営みとそれを求める消費者について第六章では書かれています。

ちなみに、この消費社会批判はボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に詳しいので興味のある方はそちらもぜひ。

 

消費社会の神話と構造 新装版

消費社会の神話と構造 新装版

 

 

資本主義社会が先鋭化すればするほど、われわれの生活のあれこれに金銭を支払う必要があります。

例えば、水。ミネラルウォーターだけでなく、いまや水道でさえ民間委託するような機運があり、公共サービスが解体されようとしています。そうなると、水は資本主義の名のもとに希少性を高めていくことが予想されます。果たしてそれでいいのか。

 

そうではなくそれは水や電気、さらには労働者でさえも「コモン」として著者の言葉を借りれば「<市民>営化」することで持続可能な経済へ移行が可能だと述べられています。ひいては、それが「ラディカルな潤沢さ」が回復され、貨幣に依存しない領域が拡大し脱成長につながっていくと。

 

このようにして第六章が進み、ではどのようにして脱成長コミュニズムを進め「ラディカルな潤沢さ」を回復していくのか?本書はその先を提示しているのですが、ぜひその先は読んでのお楽しみに……といいたいところですが、最後にまとめとしてあえて気になったことを書いて筆を置きたいと思います。

 

わたしたちは価値観を転換できるのか

「脱成長コミュニズム」へと進む道は果てしなく険しいもので、実装は難しいのではないか、ということが、この本を読んでの読後の感想に他ならないのです。

たとえば、この実装は政治的な権力や経済的な権力を持つ層との対立、あるいは抵抗が予期されることがはっきりとわかるでしょう。日本でいえば昨今当たり前のように使われるようになった「上級国民」との対立。

もうこれはあれですかね。共産党宣言での「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という革命へと至る道なのでしょうか。

それでなくとも、資本主義社会に漬かりきった自分自身がどのようにして不自由を甘受するか、その覚悟はあるのか?という問いにも答えを窮するでしょう。

 

いずれにせよ、恐らくは本書を読んで様々な反応を自分自身の中に得られるかと思います。信じるか信じないかは、あなた次第。

 

結局、関暁夫かよ!!というところで締めたいと思います。じゃあの。