なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

ネタバレあり『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観た感想とか。

2021年3月9日(火)流れる季節の真ん中で『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観てきました。どう転んでも感想がネタバレ含むものになるのでその旨ご留意いただきたい。引き返すなら、今のうちですぜ!

 

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そうそう、はせ参じた日比谷のトーホーシネマズ、平日だというのにそこそこ混んでて界隈には開場前にPCとにらめっこしてるテレワーカーなどもいましたね。テレワークってそういうことなの?ぼくは振休でしたが。

 

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エヴァンゲリオンはこの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で明確に終わった(終わらせた)わけですが、俺たちのエヴァンゲリオンは、なにかしら感想なり評価なりを文章や言葉にしないと終わりにならないのですよ。それがサガなのだ、仕方ないのだ。

 

ということで感想を脈絡なく書いていきます。ここからネタバレ区域に侵入します。

 

感想

ともかく、すべてのエヴァにかかわる情報をシャットダウンして臨んだ甲斐がありましたね。見終えて10分くらいはマスクをしていながらずっと口を開けたままポカーンとしてた気がします。あご外れたかと思ったわ。見終わった後にポスター初めて見たけどなるほど~~~~~って3回くらいうなずいた。

よかった。ありがとう、サンキュー農業、サンキューお風呂、サンキュー労働、サンキューコマツ、サンキュー日立建機、サンキューイナズマキック。サンキュー宇部興産。サンキュー宇部新川駅、サンキュー映画館の柔らかいイス。

 

さて、どこから手を付けようかというのだけど、個人的に印象に残ったのはアスカとマリのイナズマダブルキックオマージュだった。もちろん、冒頭のナディアやその他諸々のセルフオマージュもよかったけど、あのシーンは格別だった。

瞬間、ぼくの脳内では完全にアスカとマリが『トップをねらえ!』の、

ノリコ「お姉さまあれを使うわ!」

カズミ「ええ。良くてよ。」

が再生された。そして、フォーウ!!テテテテテーテ!テテテテテーテ!くじけちゃうわ、ダメな私~~~

なぜだ。おれはいま、シン・エヴァンゲリオンを観てるのにと思ってしまった。その後に13号機がガイナ立ちしているように見えたのでもうおれはダメだと思ったね。カラーにも申し訳ない。

 

話を戻して。

TVアニメ版第九話「瞬間、心、重ねて」でのシンジとアスカのユニゾン攻撃ではなく。どうしてなのかと考えてみると、あれ?アスカって日髙のり子なのか?ともふと思いついた。だからマリは安野モヨコなのか、そうか~~~と思ったけど、まあ。

 

ともかく、『シン・エヴァンゲリオン』は『トップをねらえ!』的なノリのぶちかまし熱血特攻があってロボットアニメの文脈として(エヴァンゲリオンはロボットアニメではないという批判は受け付けません!!!)80年代のノリに回帰したように思いました。とはいっても終盤の初号機VS13号機のシーンはロボットアニメではないよなあ…という。どちらかというと特撮っぽい。あえて分かるチープなつくりだったりセットだったりと。これはイマジナリーの描写なのである程度妥当性があるものだったりする。

 

ここから展開して、保守性について。たぶんこの内容が賛否両論ある気がする箇所なんじゃないかと思いましてね。元々旧劇のときから「大人になれよ、三井……」的にオタクに対する主張があったじゃないですか。『シン・エヴァンゲリオン』についてはその主張がかなりマイルドな味わいになりましたね。

 

大人になったシンジが大人になれなかったゲンドウへの接し方とか、1000人ぐらいのコミュニティ(疎開先?)の第三村で災害の現実を引き受けてそれでも生きていくケンケンやトウジとか委員長とか、地道な労働と明日への希望で日々生きる、それが人生だからやっていこうな、という主張。ゲンドウの生命のコモディティ化に反発し、人々がそれぞれの生命と責任をやっていくという主張。戦後、あるいは災害後の復興のために地道に労働し、日々に喜びを見出す、例えば子を育て、その小さな生命体が笑い、稲が実り、収穫できるという喜び。そのために生きているのだと。そんな素朴なところが保守的に映るひとがいることも想像できました。そうした生命の営みの描写に対するいやいや、そうじゃないでしょという批判ね。

 

 

他にも、災害後(戦後、あるいは東日本大震災後)の世界を描くということはある意味ではノスタルジックな描写が、とくに食事をつくるということが重要になるのだなと思った。

たとえばファイナルファンタジーⅥだってシドに生きてもらうためには早く泳ぐ魚をつかまえなきゃいけないじゃないですか。現実には稲を育て、畑を耕し、魚を釣り、メシを喰わねばならんのです。

なんとなくここらへんは宮崎駿的要素もあるかと考えましたね。しかし綾波レイが稲刈りしたかった(素朴な生き方をしたかった、収穫をみんなと喜びたかった)という欲求が叶えられなかったのは仕方ないとして収穫させてやれよ!!!と思った。

 

あとはシンジとゲンドウの対話。この映画をどう切り取るかというポイントとして「成長」や「大人になる」点に異論はないでしょう。もうひとつ考えたいのはQとの比較として「対話」すること、コミュニケーションがキーになっているなあ、と。そもそもQの惨事はみんなシンジに冷たく接しすぎたからじゃねえか、というツッコミが当時あった。

 

ミサトさんが父親に対する接し方は「肩をたたく(お引き取りを願う)のか、殺すしかない(物理的に)」ないといっていました(うろ覚え)が、シンジはそこに対話するという着地点を見出したのがよかったな。うん。

(肩をたたく=物理的なコミュニケーションかな?と思ったけど、どちらかというと隠居してもらうなのかと考えた方がベターなのかと思う。もう少し考えたい。)

 

そういう意味ではミサトさんの考え方もある意味ではQを一部では引きずっているのだけど(Qでシンジとのコミュニケーションを散々拒否していたので)、きっちりみんな最後にコミュニケーション取ろうという意志があったのがよかったですね。ゲンドウのATフィールドに泣いた。その後の半生を語る描写(コミュ障っぷり)がかなりありきたりなところがむしろエヴァ視聴者の全方向に刺さっているぞ、とも思った。

 

話がとっちらかってきたので、以下は箇条書きで。 

 

他にいろいろと気になったシーンとか名前とか

 

イスカリオテのマリア…そこはユダだろうと思ったけどなるほど、ネルフに対する裏切り者という意味でのイスカリオテのマリアなのね。

 

ゴルゴダオブジェクト…アダムの墓があるところとかキリストの処刑地とか。他のキリスト教用語は分からんからスルーした。

 

宇部新川駅…動く電車というのはそれこそ日常を描くための描写だったと思う。震災後の常磐線のように、動かない電車=非常時、定刻通りに動く電車=日常を取り戻したというところ。

 

宇部興産…化学メーカー。他にも日立建機とかコマツとかの重機メーカーが出てきて重厚長大産業!!!ものづくりニッポン!!!シン・ゴジラの「この国はまだまだやれる」を思い出した。ある意味では昭和ニッポン的懐古もある。

 

・全体的に明快なメッセージ性(エヴァンゲリオンを終わらせる)を持っていたので、うがった批評はできないよね。あとはどの価値観から評価するのかという立ち位置の問題のような気がする。

 

以上。また後日加筆修正するかもしれません。

 

さいごに、同じく見終わった友人にLINEしたら帰ってきた言葉が「NEON GENESIS!」の一言だったのに笑った。おれたちのネオン・ジェネシス、やっていこうな。