年末年始読書その1『リベラリズムの終わり その限界と未来』
新年も明けたところで、今年は何しようかしらと考えることがあるわけで、ダイエットとか筋トレとか競馬とかもあるけど、初心に戻って読書と映画、やっていこうと思っております。去年はほとんど本を読まなかったし、映画もあまり見ていない。2019年心のベストテンなんてことはとてもじゃないが書けやしない。反省。
ということで2020年はせっかくなんで、1週間に1本くらい読書感想文とかやっていきたいなと。
はい。で今回の一冊は、萱野稔人『リベラリズムの終わり その限界と未来』です。幻冬舎かよ!!!
だいたいこんな話
自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われている。米国のトランプ現象、欧州の極右政権台頭、日本の右傾化はその象徴だ。リベラル派は、国民の知的劣化に原因を求めるが、リベラリズムには、機能不全に陥らざるをえない思想的限界がある。これまで過大評価されすぎたのだ。リベラリズムを適用できない現代社会の実状を哲学的に考察。注目の哲学者がリベラリズムの根底を覆す。
幻冬舎から出たこととリベラリズムの限界を考察するという文脈から、本書が捻じ曲げられた受け取り方をされたり、恣意的に文章を抜き取られて都合のいいように(左派右派問わず)使われないかと心配している。とはいえ、この「リベラリズムの限界」をリベラル派がどう受け止め、どう克服するかは極めて難しい。
いかにリベラル派が自身を顧み、右傾化に対するアンチテーゼを提示できるか…その思考のための一冊だと思う。自分はリベラル派であると自認する人は読んで損はない。なぜリベラル派は「嫌われる」のか、その理由が書かれている。
もう少し具体的に
本書は2章で構成されている。
第1章では、同性婚を認めることと一夫多妻制(または一妻多夫制)を認めることの違いはあるのか。あるいは近親婚はなぜタブーなのか。この議論から、リベラリズムの「ご都合主義」や「欺瞞」について思考を巡らせていく。私たちはリベラリズムをどこまで徹底できるのか、という問いにどう答えるのか。
第2章では、生活保護バッシングや不正受給への一般人の反応を手掛かりに弱者救済という課題に対してリベラリズムの限界を考えていく。ここでの問いの出発点は、生活保護バッシングや不正受給に想起される在日外国人へなぜ生活保護を受給させなければならないのか、という(主に右派が主張する)ことから議論をスタートし、その上で財源という「パイをどう分配するか」という現実的な問題に直面した際のリベラリズムが無視している点について言及する。
第2章で参照されるのは、功利主義批判を展開したロールズの「正義論」の2つの原理である。詳細は割愛するとして、パイの分配を手厚くすべきだというリベラリズムの主張は一見、普遍的な正義であるように思えるが、それは条件依存的であるという。端的に言えば、パイの拡大が見込まれている場合にしか、リベラリズムの主張は説得力や実効性を持たないということである。
また「正義論」の中に登場するマキシミン・ルールにも言及されている。マキシミン・ルールとは、《もっとも恵まれない人たちにとって最善の状態になる社会を選ぶべき》ということらしい。
著者によると、ロールズはリベラリズムの限界に自覚的だったという。このマキシミン・ルールを適用するために、パイが減少しているときにパイを分配するのは正義に反するというからだということだ。リベラリズムが正義の原理であるのは、パイが拡大することが条件ということで、リベラリズムが力を失っているのは、パイが減少していることが理由に他ならないらしい。
まとめてみると、リベラリズムが限界を迎えているのは、
1) リベラリズムは「ご都合主義」的であり「欺瞞」的である
2)リベラリズムは「パイの拡大」という条件によって成り立つ
ということに直面しているためである。
それをどう克服していくかが、リベラリズムが力を取り戻すための大きな課題である。
リベラリズムの現在と未来
ちょうどこの記事を書いているときに、フィンランドの首相サンナ・マリン氏のツイートが目に留まった。
”The strength of a society is measured not by the wealth of its most affluent members, but by how well its most vulnerable citizens are able to cope. The question we need to ask is whether everyone has the chance to lead a life of dignity.”https://t.co/WUnJxpWyQ9
— Sanna Marin (@MarinSanna) December 31, 2019
翻訳してみると、ざっとこんな意味だ。「社会の強さとは、最も裕福な人々の富ではなく、最も弱い市民がどれだけうまく乗り越えることができるかによって測定されます。私たちが尋ねる必要があるのは、誰もが尊厳のある生活を送る機会があるかどうかです。」
うむ、まさにリベラリズムの発言である。というよりも、ロールズの「正義論」のマキシミン・ルールそのものである。
が、フィンランドは日本と同様に少子高齢化、納税者が減っているという問題に直面している。ぼくもまさに、うんうん、そんな社会になるといいねえ、と諸手を挙げて賛成したいのだが、ここでもまたパイの分配という壁にぶち当たる。なんというか、正義を達成するためには金が必要であるというなんともシリアスな話である。先立つものがないとなんもならんとはよく言ったものだが…
展望としては、経済政策に強く、ビジョンを示すことができるリベラル派が登場しないことには、大衆の支持を得られないのではないかと思うと、逆を張る「なんでもコストカット!新自由主義じゃ!」的な考え方に食われてしまうのではないかと、おじさん。心配です。
本書は功利主義やリベラリズムを考える入門編といったところでしょうか。この本を足掛かりに功利主義やリベラリズムの本丸について考えていきたいところ。
果たして、来週も書けるかどうか…