なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』年末年始読書2020~2021その2

有馬記念も終わり、東京大賞典も終わり、いよいよ2020年も残り1ハロンくらいになりましたね。最後の直線でのサラキアくらいの差し脚くらいのスピードを出していきたい。

 

クロノジェネシスおめでとうございます。本命だったけどサラキアがいなかった。オメガパフュームもおめでとう。

 

さて、年末年始読書も2回目です。1回目のエントリは東浩紀『ゲンロン戦記「知の観客をつくる」』でした。

 

『ゲンロン戦記「知の観客をつくる」』年末年始読書2020~2021その1 - なんかいいことおまへんか!!

 

今回読んだのは、竹田人造『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』です。上質なエンタメSFでおもしろかった。

 

ギーク!バディ!人工知能スラップスティックB級映画!的なノリが展開されているので、人工知能に興味があって面白い小説を読みたいという欲求が満たされること間違いなしです。

 

 

だいたいこんな話

首都圏ビッグデータ保安システム特別法が施行され、凶悪犯罪は激減――にもかかわらず、親の借金で臓器を売られる瀬戸際だった人工知能技術者の三ノ瀬。彼は人工知能の心を読み、認識を欺く技術――Adversarial Example――をフリーランス犯罪者の五嶋に見込まれ、自動運転現金輸送車の強奪に参加するが……。人生逆転&一攫千金、ギークなふたりのサイバー・ギャングSF 

タイトル(改題)について

この本が世に出る時、タイトルの改題でネットがざわついた話も記憶されている方がいらっしゃるのではないでしょうか。

 

原題は『電子の泥舟に金貨を積んで』というSFの王道的なタイトルで、たとえば『天の光はすべて星』だとか、「たったひとつの冴えたやり方」とか「月は無慈悲な夜の女王」だとか、そういった海外SFの名タイトルを彷彿とさせるものでした。

 

それが、いや全然面影ないやんか!くらいに180度ひっくり返ったように出版時にこちらの『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』に改題されたわけです。

 

著者本人によって改題の衝撃と顛末について書かれていますので、興味あればそちらもどうぞ。

 

10億ゲット作者の思う『編集者は敵なのか』|竹田人造|note

 

読後の感想としては、個人的に今回の改題は正解だったんじゃないかと思っています。この軽薄な感じ、キャッチーな感じがとてもよいですし。カーチェイスやらカジノ、ポーカーなんかの舞台装置も出てくるので、軽いニュアンスの方がいいんじゃないかと。

 

そうそう、先ほどの著者noteで書かれているのだけど、この小説の作者の叫びである終盤の主張も見逃せません。

現役のエンジニアである作者の日本の機械学習人工知能の将来を憂いながらも、それでも希望を見出すという要素があるので。泥船とは一体何なんですかね、という話に繋がってきます。

 

ストーリーについて

借金背負わされて臓器を売り飛ばされそうになる主人公のAIエンジニア、三ノ瀬と映画フリークの胡散臭さ満載の犯罪コンサルタント、五嶋のバディものです。キャラクターめちゃくちゃ立っているのがよい。

 

他にも一川、六条などクセのある人物が登場します。主要人物に数字がついているの、めぞん一刻っぽさがある。

 

ストーリーは三部構成になっており、それぞれ、現金輸送車強盗、カジノ(ポーカー)、カジノ(ダイヤを盗む)が主な舞台です。

 

興味深いのはそれぞれの章のタイトルの名前。この各章のタイトルのつけ方からしても、全体のタイトルへの思いも強かったのではないでしょうか。少し見てみましょう。

 

ACTⅠ 最後の銀行強盗 Going in Style

ACTⅡ 裏切り者のサーカス Tonkotsu Takers Slave Snake

ACTⅢ 修士異常な愛情 Master's Strangelove or:How I Learned to Stop Worrying and Love AI

ポイントとしては英題ですね。

ACTⅠとACTⅢについてはパッと見てわかりましたが、ACTⅡについてはぼくはわかりませんでした。ググったらようやく出てきた。

 

元ネタは『裏切りのサーカス』で原題は『Tinker Tailor Soldier Spy』だそうです。ゲイリー・オールドマンだって!

ACTⅠは『ジーサンズ はじめての強盗』の原題ですし、ACTⅢは『博士の異常な愛情』そのままですね。

一度読み通してから各章の元ネタを見ているとなるほど、なるほど~~~!!!と思いました。小説読んでからの映画見る楽しみ方もいける、一粒で三度おいしいってやつですよ!

 

全編的に映画チックな文章のテイストなので、小説あまり読んだことないよ、という人でもすんなり入っていけるかと思います。

とはいえ、随所に頻出する人工知能関連の単語はSFならでは、といったところでしょうか。

たとえば「ディープラーニング」、「自己回帰型生成モデル」、「ウォズニアックテスト」、「ノーフリーランチ定理」、「Adversarial Example」などエンジニアならニヤリとする、しかしエンジニア以外はポカンとする言葉が満載です。

 

でも大丈夫。

 

人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』を読めば、AIエンジニアもそうでない人も人工知能関連の言葉を「完全に理解した」ことが可能です。意味はググれ。

 

そうそう、主人公のAIエンジニア、三ノ瀬がこういったこういった技術を駆使して犯罪のためのトリックを組み立てたり、あるいは敵方のAI技術者とバトルする展開になっているので、なるほどそういう人工知能ってそういう使い方ができるのね~~~と思うかもしれませんが、そこはSFなので悪しからず、です。武装ドローンとか出てくるし。

 

まとめ

この小説は早川書房の第8回SFコンテストで優秀賞を受賞した作品なんですが、巻末にその選評が掲載されています。第1回で取り上げた東浩紀も評者として登場しています。なるほど、プロはこういう読み方をしているのだなあということも勉強になりますね。

 

人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』はたしかにSFではありますが、現実でも人工知能で10億円ゲットする手段を開発している方がいらっしゃいますね。

具体的には競馬や競艇などの公営ギャンブルの場でよく見られています。

 

人工知能で合法的に10億円ゲットする方法について気になる方はそちらもチェックしてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

『ゲンロン戦記「知の観客をつくる」』年末年始読書2020~2021その1

2020年の年始に企てた「初心に戻って読書と映画、やっていこうと思っております」宣言、ものの見事に目論見が雲散霧消してしまいました。

 

結局15冊くらいしか読んでない。その反省を活かして2021年は読書すんぞ!!という意気込みを態度で示すべく読んだ本の感想などを書いていきます。

 

今回は東浩紀『ゲンロン戦記「知の観客をつくる」』でいきましょう。

 

 

だいたいこんな話

「数」の論理と資本主義が支配するこの残酷な世界で、人間が自由であることは可能なのか? 「観光」「誤配」という言葉で武装し、大資本の罠、ネット万能主義、敵/味方の分断にあらがう、東浩紀の渾身の思想。難解な哲学を明快に論じ、ネット社会の未来を夢見た時代の寵児は、2010年、新たな知的空間の構築を目指して「ゲンロン」を立ち上げ、戦端を開く。ゲンロンカフェ開業、思想誌『ゲンロン』刊行、動画配信プラットフォーム開設……いっけん華々しい戦績の裏にあったのは、仲間の離反、資金のショート、組織の腐敗、計画の頓挫など、予期せぬ失敗の連続だった。悪戦苦闘をへて紡がれる哲学とは? ゲンロン10年をつづるスリル満点の物語。(公式HP:ラクレ12月度 新刊情報|中公新書ラクレ ONLINE より引用)

 

途中まで読んだ感想をTwitterに書いてた。

 

 

ゲンロンという会社は哲学者が創業したという珍しい企業であるのだけど、その創業の経緯や創業から10年のゴタゴタなどは本書を読んでいただければわかります。

 

というのも、この創業からの10年間の悪戦苦闘と反省がこの本のテーマだからなのですが。

 

そして、このゲンロンの友の会会員(年会費を支払って書籍などが手に入るサービス)だった自分にとっては当時を思い返し懐かしい気持ちになったのが今回読もうと思った動機です。そしたらこれが!非常に面白かったので取り上げることにしました。

 

本書の読み方としてぼくなりに2通りの切り取り方をしてみます。一つはベンチャー企業で営業スタッフとして働いていた自分」としての切り取り方、そしてもう一つは「ゲンロン友の会会員だった自分」としての切り取り方。先ほどのTwitterに書いていたのは後者の読み方ですね。

 

ベンチャー企業で営業スタッフとして働いていた自分」としての読み方

この本のページの大部分を占めている会社経営の成功と失敗(失敗の記述が8割ですが)を読んでいると、ああ自分の会社もそうだったなあと共感の連続でした。

 

この本の本質は会社経営しくじり先生といっても過言ではないでしょう。これだけでも経営者、ベンチャー企業(スタートアップ)で働いている人たちはうんうん頷く経営の教科書的な役割を果たしています。

 

自分はもちろん経営者ではなく、イチ営業スタッフだったのですが、当時社長には「トップ営業やってほしい」、「新しいサービスの開発をやってほしい」、「パートナー企業を探してほしい」などの要望を持っていました。

 

でも社長はその時間を銀行のひとと話していたり、通帳とにらめっこするなどをしていて、なぜ社長は事業のことに関心を払わないのだろうと考えていました。

 

ですが、じっさいにこの本を読んでみると経営者の孤独と苦悩がしみじみわかります。

例えば事業に失敗しての資金繰り。『ゲンロン戦記』でも幾度となく資金繰りに苦労するシーンが出てきます。ついには会社を畳もうということも。

 

実際に2012年刊行の『日本2.0』や2013年の『福島第一原発観光化計画』は具体的にどのくらい売れなかったのかを語っていてそれが経営にどのくらい影響を与えていたのか、予算と実績の乖離に頭を悩ませているシーンは胸が痛くなるほどです。

 

イチ営業スタッフであれば、事業が失敗した、じゃあ次はどのようにやろうか、どの仕掛けが悪かったのか、反省点を活かして次に進むことを考えればいいのですが、経営者はそこに事業資金というものが大きくのしかかるわけで、それを当時のぼくはじゅうぶんに理解していなかった。

 

みているものが違うという当然のことですが、これこそが経営者の孤独と苦悩でしょう。これを赤裸々につづっているのが本書の価値といえます。

 

もう一つ、株式会社ゲンロンも当時勤めていた会社も10人前後の会社という共通点があります。10人未満の会社というのは、ひとりが持つ役割が膨大なものになります。

 

ぼく自身は営業をやりながら、写真撮影をしたりインタビューをしたり自社のメディアを切り盛りしていました。そのほかにもいろいろなことを兼務していました。残念ながら紆余曲折あってこの会社は退職することになりましたが……

引き継いだはずの営業先、自社メディアなどがうまくいっていればいいのですが、さまざまなことを兼務していたスタッフの後任が同じく全部できることはありません。

ひとり当たりの負担と裁量が大きい中小企業にとって人事は死活問題だと肌で感じることができました。

 

ゲンロンも実際にそのようだったみたいで、経理をやっているスタッフがいつの間にか総務や人事を担うことになり、果ては会社を巻き込む退社劇を巻き起こすことになるようです。

ちなみに、このスタッフ目線でいうと、なんとかして自分なりにいろいろと会社をよくしようと思った結果だと思うので、それはそれで従業員としての悲哀があるなあと思いました。

 

この経営と人事の問題は本書のあらゆるところに顔を出すので、経営あるあるなのだと思います。

 

10人前後という中小企業(零細企業)にとって人事は死活問題ですが、ひとを採用し、育成することの難しさ、しごとを任せる難しさを語っていることも見逃せません。

 

こういったゲンロンの経営的な事件が具体的なものとして語られているので、非常に納得するものばかりです。なんといっても、フィジカルな体験としてつづられているのがよい。例えば、

けれども、会社に戻れば、契約書の処理や業者との連絡に追われていて、なにひとつクリエイティブだったり学問的だったりすることは考えられなかった。「あれどうなったの?」「あの契約は解除できた?」みたいなやりとりばかりで、おれ、なんのために会社つくったんだろうと虚しくなっていました。p67

 

だとか、

 

そういう作業をするなかで、ついに意識改革が訪れました。「人間はやはり地道に生きねばならん」と。いやいや、笑わないでください。冗談ではなく、本気でそう思ったのです。会社経営とはなにかと。最後の最後にやらなければいけないのは、領収書の打ち込みではないかと。ぼくはようやく心を入れ替えました。p80

 

契約書、領収書の打ち込み、HDMI経理処理、こういった具体的な事例が幾度となく実体験として出てくることがとてもよいものだと思いました。 

 

「ゲンロン友の会会員だった自分」としての読み方

ゼロ年代そこそこ熱心な東浩紀の読者だったぼくはゲンロンの前の会社のコンテクチュアズという会社の友の会会員でした。

 

動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』のキレ味の鋭い批評と現代日本文化を鮮やかに切り取る文章に、こんな批評家がいるのか!と興奮したことを覚えています。

 

過去形で記述されていることからもわかる通り、現在は会員ではありません。

 

それこそ、この本にも書かれている読者数の変遷とその当時の会社の状況とリンクしていて、かつて熱心な読者であった自分としては、まさかそんなことが起きていたなんて!とびっくりしました。

 

2014年ごろに東京に移り住んできたこともあり、それを機会に友の会総会にも参加したのですが、総会のあまりにも内輪ノリで常連と思われる人たちが楽しんでいる様子を見て「つ、つまらん……!!」とブチ切れてビールをしこたま飲んでプンプン怒りながら都営浅草線に乗って帰ってきたことを今でも思い出します。

 

当時のプログラムはググればでてくるでしょうが、なんとなく東浩紀とその仲間たち的なノリがきつかった。その後、友の会会員を更新することはありませんでした。

 

今となっては、自分の度量の狭さや、そもそも総会とはそういうものである、という認識も持てますが、当時は難しかったのでしょう。

 

この自分が感じた内輪ノリ集団に嫌気が差したことはじつは重要だったのだと本書を読んで思いました。ゲンロンのコンテンツはたしかに面白い。知的な好奇心にあふれるプログラムが多く、まさに「知のプラットフォーム」であると思っていました。

 

でも総会の参加者や友の会会員が信者に見えて仕方なかった。これが嫌気が差した理由です。

 

もちろん、当時のことなので少し誇大に捉えている部分もあるでしょうし、今と当時では状況は異なっているでしょう。実際、会員の層も多様化しているようです。

 

この信者に見えて仕方なかったということが、第5章で語られている著者自身の「ホモソーシャル性」との決別、あるいは最終章で語られている観客と信者との違いという点が昔のゲンロンにあったのでは、と思っています。

もちろん今でも信者的なスタンスのひとは一定数いるでしょうが……そうでいない人が増えているようです。

 

ゲンロンは変わったのかもしれないと、そう期待してもいいのだとこの本を読んで感じました。

 

まとめ(よき観客として)

 

ゲンロンは創業から10年が経ちました。中小企業が10年もの間継続することは並大抵の経営手腕でできることではありません。データ的には創業から10年で生き残れる会社は30%程度という厳しい数字です。

 

その荒波を乗り越えてきたのは事業そのものの魅力(ビジョンと変換してもいいかもしれません)や経営者としての手腕だといえるでしょう。

 

なので、中小企業や創業したての会社がどうすれば10年存続できるか、そのヒントが本書に書かれているのだと思います。

 

そうそう、ゲンロンは2020年10月に新しい動画配信プラットフォームのシラスを立ち上げたようです。

shirasu.io

 

これからはよき観客としてゲンロンおよびシラスのサービスを受けてみようと思いました。

四畳半タイムマシンブルースの感想とか。

2005年に太田出版から『四畳半神話大系』が出版されてはや16年。

2010年にフジテレビのノイタミナ枠でアニメ化されてはや10年。

久しぶりの!腐れ大学生活が舞台の!森見登美彦の!著作!!それが!四畳半タイムマシンブルース!!

懐かしさと新作が出た喜びに思わず手に取ってしまったのでいろいろと書こうかなーどうしようかなーと考えたところ、いやお前そろそろ何かしら書けや、と内なるジョニーが語り掛けてきたのでリハビリがてら感想でも書くかね。もう過去の文体なんか忘れてしまって候。どうにかして取り戻したい。

  

 

あらすじはこんな感じ。

水没したクーラーのリモコンを求めて昨日へGO! タイムトラベラーの自覚に欠ける悪友が勝手に過去を改変して世界は消滅の危機を迎える。そして、ひそかに想いを寄せる彼女がひた隠しにする秘密……。
森見登美彦の初期代表作のひとつでアニメ版にもファンが多い『四畳半神話大系』。ヨーロッパ企画の代表であり、アニメ版『四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』『ペンギン・ハイウェイ』の脚本を担当した上田誠の舞台作品『サマータイムマシン・ブルース』。互いに信頼をよせる盟友たちの代表作がひとつになった、熱いコラボレーションが実現!

 

そうそう。特設サイトや動画もあったので掲載しておこう。主人公である私のナレーション!なつかしい……

 

https://kadobun.jp/special/yojohan-timemachine/

 

ということで、下敷きはご存じ『サマータイムマシン・ブルース』。こちらも瑛太上野樹里の主演で映画化されたのも記憶に新しい。って思ったけどこっちはこっちで映画化されたのは2005年とか。嘘だといってよ、バーニィ

ご存じと申し上げたがぼくは未見である。

それはそうと本題に入る。表紙は先ほど掲載してるので割愛するとして、ページを開くと、アニメ化されたときのキャラクターデザイン。これだよこれ!この安心感。そして……見知らぬキャラクターが後ろにデデン!と。お前誰だ!鉄郎か??はたまたジョージ秋山の書く動きと心が読めないキャラクターか?それともお笑い第七世代、宮下草薙は草薙か?

 

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似ていると個人的に思ってるキャラクター挙げたけど、この子が今回の騒動を一段と盛り上げるメンバー「田村くん」である。モッサリとした感がよくでてるモッサリよ。

この子と例のメンツがあーだこーだやる具合のストーリーなので、なんというかこうシリーズ物の安心感と、原案を森見登美彦氏がどう料理するのかを楽しめばよいかと。ちなみに、原案と映画は未見だったので、結末までぼくは楽しめた。あまりストーリーについてグダグダと書くのはこれに限って言えば無粋なので割愛させていただこう。

 

さて、こうして小説はエンターテイメント的に楽しく読めたのだけど、気づいたことが二つあって。

 

一つは、アニメ化されたキャラクターが活字になると、会話や地の文がそのキャラクターの声で脳内再生されるということ。これが面白い。ライトノベル読んだことあまりないのだけど、もしかしたらこういった現象が多々発生するのかもしれん。メディアミックスの功よね。とくに四畳半タイムマシンブルースは一人称での語りなのですんなりと入ってくる。一時期流行った(今も流行ってるけど)2.5次元的ミュージカルなんかを考えるときにも敷衍できそう。

 

二つ目はなんとなく重苦しい話。現実的には今この時代では例のウイルスの仕業でこういった大学生活を送れないという悲しさがあるよね、それにどう向き合うのがいいのかね、ということ。もう30代のおっさんなので大学生活を回顧しながらあの時ああいうイベント体験したかったちくしょう!的なのももうないのだけど、例えば今年の春に大学入学、授業はほとんどオンライン、部活やサークルにも入れない、新歓もなければ新しく友人をつくる機会もないという大学生が多いのではないかということ。

悪友で黒い糸で結ばれている小津とか、何を考えているか全くわからない時空のはざまで生きている先輩とか、下鴨神社で偶然出会い、落としてしまったぬいぐるみを拾い上げて渡すことがきっかけで知り合った明石さんとか、そういった大学生活を彩る友人や恋人などとの偶然の出会いが剥奪されるというのはとても残酷なことだと思う。

かといって、対面授業やサークル活動再開させましょうというのも難しい問題で。ぼくが大学に入学したのがちょうど2005年ごろ、この本の単行本が出版された年でそこから登美彦氏の著作とともに大学生活を過ごしてきたといっても過言ではなく、その時には同じ大学生として経験に基づくエンパシーがあったりするのだけど、果たしていま(2020年8月現在)の学生が共感できるかと思うと、それは少し難しいというか、どちらかというとこの小説のようなドタバタ劇はいまは二重にも三重にも「起こりえない」ものだということで、せめて小説の中だけでは大学生活を楽しんでほしいとしか言えない。そして、それを楽しめるか、という問題でもあったりする。現役大学生はどのような感想を持つのだろうか。少し気になる。

さて、ここまでくると話広げすぎ問題になってしまうし、自分は新型コロナウイルスと文学の作用についてキャッチアップできていないのでまたほかの機会に譲る。

結びに入ろう。

そもそも『四畳半神話大系』は「あったかもしれない」複数のパラレルワールドを書いた作品で、その続編である『四畳半タイムマシンブルース』もその並行世界のうちの一つの続編なので、もしかしてこの本の結末も…という考えがよぎったけれど、とりあえず俺はこう言いたいよ。「登美彦!!お前は!!最後の最後に!!やってくれたな!!!」と。結末を刮目してご覧じろ。16年間フォローした甲斐があるってもんですよ!

年末年始読書その1『リベラリズムの終わり その限界と未来』

新年も明けたところで、今年は何しようかしらと考えることがあるわけで、ダイエットとか筋トレとか競馬とかもあるけど、初心に戻って読書と映画、やっていこうと思っております。去年はほとんど本を読まなかったし、映画もあまり見ていない。2019年心のベストテンなんてことはとてもじゃないが書けやしない。反省。

 

ということで2020年はせっかくなんで、1週間に1本くらい読書感想文とかやっていきたいなと。

 

はい。で今回の一冊は、萱野稔人リベラリズムの終わり その限界と未来』です。幻冬舎かよ!!!

 

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

 

 

だいたいこんな話

自由を尊重し、富の再分配を目指すリベラリズムが世界中で嫌われている。米国のトランプ現象、欧州の極右政権台頭、日本の右傾化はその象徴だ。リベラル派は、国民の知的劣化に原因を求めるが、リベラリズムには、機能不全に陥らざるをえない思想的限界がある。これまで過大評価されすぎたのだ。リベラリズムを適用できない現代社会の実状を哲学的に考察。注目の哲学者がリベラリズムの根底を覆す。

 

幻冬舎から出たこととリベラリズムの限界を考察するという文脈から、本書が捻じ曲げられた受け取り方をされたり、恣意的に文章を抜き取られて都合のいいように(左派右派問わず)使われないかと心配している。とはいえ、この「リベラリズムの限界」をリベラル派がどう受け止め、どう克服するかは極めて難しい。

いかにリベラル派が自身を顧み、右傾化に対するアンチテーゼを提示できるか…その思考のための一冊だと思う。自分はリベラル派であると自認する人は読んで損はない。なぜリベラル派は「嫌われる」のか、その理由が書かれている。

 

もう少し具体的に

本書は2章で構成されている。

第1章では、同性婚を認めることと一夫多妻制(または一妻多夫制)を認めることの違いはあるのか。あるいは近親婚はなぜタブーなのか。この議論から、リベラリズムの「ご都合主義」や「欺瞞」について思考を巡らせていく。私たちはリベラリズムをどこまで徹底できるのか、という問いにどう答えるのか。

第2章では、生活保護バッシングや不正受給への一般人の反応を手掛かりに弱者救済という課題に対してリベラリズムの限界を考えていく。ここでの問いの出発点は、生活保護バッシングや不正受給に想起される在日外国人へなぜ生活保護を受給させなければならないのか、という(主に右派が主張する)ことから議論をスタートし、その上で財源という「パイをどう分配するか」という現実的な問題に直面した際のリベラリズムが無視している点について言及する。

 

第2章で参照されるのは、功利主義批判を展開したロールズの「正義論」の2つの原理である。詳細は割愛するとして、パイの分配を手厚くすべきだというリベラリズムの主張は一見、普遍的な正義であるように思えるが、それは条件依存的であるという。端的に言えば、パイの拡大が見込まれている場合にしか、リベラリズムの主張は説得力や実効性を持たないということである。

 

また「正義論」の中に登場するマキシミン・ルールにも言及されている。マキシミン・ルールとは、《もっとも恵まれない人たちにとって最善の状態になる社会を選ぶべき》ということらしい。

著者によると、ロールズリベラリズムの限界に自覚的だったという。このマキシミン・ルールを適用するために、パイが減少しているときにパイを分配するのは正義に反するというからだということだ。リベラリズムが正義の原理であるのは、パイが拡大することが条件ということで、リベラリズムが力を失っているのは、パイが減少していることが理由に他ならないらしい。

 

まとめてみると、リベラリズムが限界を迎えているのは、

1) リベラリズムは「ご都合主義」的であり「欺瞞」的である

2)リベラリズムは「パイの拡大」という条件によって成り立つ

ということに直面しているためである。

それをどう克服していくかが、リベラリズムが力を取り戻すための大きな課題である。

リベラリズムの現在と未来

ちょうどこの記事を書いているときに、フィンランドの首相サンナ・マリン氏のツイートが目に留まった。

 

 

翻訳してみると、ざっとこんな意味だ。「社会の強さとは、最も裕福な人々の富ではなく、最も弱い市民がどれだけうまく乗り越えることができるかによって測定されます。私たちが尋ねる必要があるのは、誰もが尊厳のある生活を送る機会があるかどうかです。」

 

うむ、まさにリベラリズムの発言である。というよりも、ロールズの「正義論」のマキシミン・ルールそのものである。

 

が、フィンランドは日本と同様に少子高齢化、納税者が減っているという問題に直面している。ぼくもまさに、うんうん、そんな社会になるといいねえ、と諸手を挙げて賛成したいのだが、ここでもまたパイの分配という壁にぶち当たる。なんというか、正義を達成するためには金が必要であるというなんともシリアスな話である。先立つものがないとなんもならんとはよく言ったものだが…

 

展望としては、経済政策に強く、ビジョンを示すことができるリベラル派が登場しないことには、大衆の支持を得られないのではないかと思うと、逆を張る「なんでもコストカット!新自由主義じゃ!」的な考え方に食われてしまうのではないかと、おじさん。心配です。

 

本書は功利主義リベラリズムを考える入門編といったところでしょうか。この本を足掛かりに功利主義リベラリズムの本丸について考えていきたいところ。

 

果たして、来週も書けるかどうか…