なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

知識で殴れ!言語で世界を○○しろ!/ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』

年初に今年はいろいろと書いていきたいよねと述べたもののダビスタswitchとか競馬の予想とかでなかなか筆を執る機会をつくらずにおりました。久しぶりに書こうかね。

ということで、今回はローラン・ビネ『言語の七番目の機能』です。ローラン・ビネについては以前『HHhH』について書いたエントリがあります。もう7年前のエントリですか。

歴史叙述の困難を物語るメタフィクションーローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』ー - なんかいいことおまへんか!! (hatenablog.com)

 

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ローラン・ビネ、『HHhH』でも唸ったけど小説としては一癖も二癖もある作品を書き上げる作家ですね。今回の『言語の七番目の機能』なんて記号学と80年代前後に生きた学者がめちゃくちゃ出る作品ですから、割ととっつきにくいイメージがあるかも。

さて本書、学生時代は文学部で歴史学専攻してた自分ですが、記号学とか言語学とかは一般教養+αの知識があるかないかくらいなので正直ロラン・バルトなんて読んでないし大丈夫か、と思いながら読み進めました。途中、「言語論的転回」とか歴史学専攻には馴染みのある言葉もこの小説には出てきます。それはさておき、うん、やはりエンターテイメント的にはすこぶる楽しめたけど、これはもう少し自分自身にレベルアップが必要だなというのが感想ですね。そういった意味では向学心をくすぐる一冊だと思います。

導入が長くなったけど、だいたいこんな話。

大統領候補ミッテランとの会食直後、交通事故で死亡した哲学者、記号学ロラン・バルト。彼の手許からはある文書が消えていた。これは単なる事故ではない!誰がバルトを殺したのか?捜査にあたるバイヤール警視と若き記号学者シモン。この二人以外の主要登場人物のほぼすべてが実在の人物たち。フーコーデリダエーコクリステヴァソレルスアルチュセールドゥルーズガタリギベールミッテラン……という綺羅星のごとき人々。謎の秘密クラブ〈ロゴス・クラブ〉とは? フィクションと真実について、言葉の持つ力への愛を描く傑作! 訳者あとがき=高橋啓

言語の七番目の機能 - ローラン・ビネ/高橋啓 訳|東京創元社

  

言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)

言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)

 

 

本書、ある意味では若い言語学者と壮健な警察官のバディもの(シャーロック・ホームズとワトソン的な)だし、消えた文書を探すミステリものだし、実在の人物(フーコーデリダエーコとかめっちゃ出てくる)がめちゃくちゃに描かれてるし(よく訴訟されなかったね)、やたらめったら小難しい言葉が出てくる衒学小説でもあり、ファイト・クラブよろしくタイマンでの言葉バトルを繰り出す知の格闘小説といったいろんな要素を詰め込んだ小説。

なので、書評も一筋縄にはいかねえ、といったところが正直な感想です。というか、自分は本当にこの小説を理解できているのか、という気持ち。試されてる感ある。

いや、めちゃくちゃに面白いんですよ。でも、実在の学者や政治家が出てくる小説なので、その予備知識があればもっと楽しめたんだろうな、と。
※いろいろな理論とか小難しい言葉は一般人代表のバイヤール警視と学者シモンのやり取りによって解説されますのでご安心を。

 

たとえば、言語の七番目の機能ということは言語の1~7の機能について言及するのが予想される。じゃあその意味するところは、というとヤコブソンというロシアの言語学者が提唱した「言語の六つの機能」を下敷きにしている、ということを知っておいた方が楽しめるし、フーコーが性的にめちゃくちゃやってんな!ということも知っておくと、ああなるほどね、とニヤリとなるし、ウンベルト・エーコめちゃくちゃすげえな!!!!というのも、もしかしたらエーコの著作を読んでおいた方が数倍楽しめるかもしれない。他にもパラノイアスキゾイドとかあるいは80年代のフランスの政治とかも軽く触れておくといいのかもしれない。だってミッテランとかシラク志らくに変換された)とかは世界史の中の人物なので。

 

だからなのか。帯にも書いてあるように著者が「エーコ+『ファイト・クラブ』を書きたかった」と述べているんですかね。膨大な知識を詰め込んだ小説。

 

そうそう、先ほど軽く触れましたが『言語の七番目の機能』には<ロゴス・クラブ>という「ファイト・クラブ」をなぞった知の格闘技が出てきます。この舞台設定が非常によい。ある一つのテーマを肯定する立場/否定する立場に分かれて論じる2人がその優劣を競うのだけど、負けたらめちゃくちゃ悲惨。ある意味では「ファイト・クラブ」の敗者よりも身体に深い痛手を負っている可能性ある。なので、本当に知で知を洗うバトルが繰り広げられていて、その描写と知的な要素に唸ってしまった。

 

あとは読み進めて思ったのは言語の七番目の機能とは何かといえば、伊藤計劃虐殺器官』に出てくるアレかというのが思い浮かびました。これは日本のSF好きならではの特権かもしれません。これ以上書くとどちらのネタバレにもつながるので割愛します。

 

最後に、ローラン・ビネは『HHhH』でもそうであったように、「小説」という枠組みを存分に活かした展開が特徴的。たとえば、

小説は夢ではない。小説の中で死ぬことだってあるのだ。とはいえ、ふつうなら、主人公が殺されてしまうことはない。ただし、時と場合によって、物語の終わりで死ぬことはあるとしても。

 でも、これが物語の終わりじゃないって、どうしてわかる?自分がいま、人生のどのページにいるなんて、どうしてわかる?人生の最後のページまで来たことをどうして知ることができる? p375 

なんて具合に。これは主人公の一人、シモンの独白なのだけど、彼は小説の中で創作された人物で、これを小説の主人公に言わせるのかね、というところが彼の小説の面白さなんじゃないかと。他にも、主人公シモンの一人称と作者の視点が絡みあうところがあったり、複雑な構成も見事。

小説ってここまで構成が練られているものだと実感するには最適な一冊だと思います。あと、少しだけ頭が良くなった感得られるかも。GWのおともにぜひ。

ネタバレあり『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観た感想とか。

2021年3月9日(火)流れる季節の真ん中で『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観てきました。どう転んでも感想がネタバレ含むものになるのでその旨ご留意いただきたい。引き返すなら、今のうちですぜ!

 

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そうそう、はせ参じた日比谷のトーホーシネマズ、平日だというのにそこそこ混んでて界隈には開場前にPCとにらめっこしてるテレワーカーなどもいましたね。テレワークってそういうことなの?ぼくは振休でしたが。

 

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エヴァンゲリオンはこの『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で明確に終わった(終わらせた)わけですが、俺たちのエヴァンゲリオンは、なにかしら感想なり評価なりを文章や言葉にしないと終わりにならないのですよ。それがサガなのだ、仕方ないのだ。

 

ということで感想を脈絡なく書いていきます。ここからネタバレ区域に侵入します。

 

感想

ともかく、すべてのエヴァにかかわる情報をシャットダウンして臨んだ甲斐がありましたね。見終えて10分くらいはマスクをしていながらずっと口を開けたままポカーンとしてた気がします。あご外れたかと思ったわ。見終わった後にポスター初めて見たけどなるほど~~~~~って3回くらいうなずいた。

よかった。ありがとう、サンキュー農業、サンキューお風呂、サンキュー労働、サンキューコマツ、サンキュー日立建機、サンキューイナズマキック。サンキュー宇部興産。サンキュー宇部新川駅、サンキュー映画館の柔らかいイス。

 

さて、どこから手を付けようかというのだけど、個人的に印象に残ったのはアスカとマリのイナズマダブルキックオマージュだった。もちろん、冒頭のナディアやその他諸々のセルフオマージュもよかったけど、あのシーンは格別だった。

瞬間、ぼくの脳内では完全にアスカとマリが『トップをねらえ!』の、

ノリコ「お姉さまあれを使うわ!」

カズミ「ええ。良くてよ。」

が再生された。そして、フォーウ!!テテテテテーテ!テテテテテーテ!くじけちゃうわ、ダメな私~~~

なぜだ。おれはいま、シン・エヴァンゲリオンを観てるのにと思ってしまった。その後に13号機がガイナ立ちしているように見えたのでもうおれはダメだと思ったね。カラーにも申し訳ない。

 

話を戻して。

TVアニメ版第九話「瞬間、心、重ねて」でのシンジとアスカのユニゾン攻撃ではなく。どうしてなのかと考えてみると、あれ?アスカって日髙のり子なのか?ともふと思いついた。だからマリは安野モヨコなのか、そうか~~~と思ったけど、まあ。

 

ともかく、『シン・エヴァンゲリオン』は『トップをねらえ!』的なノリのぶちかまし熱血特攻があってロボットアニメの文脈として(エヴァンゲリオンはロボットアニメではないという批判は受け付けません!!!)80年代のノリに回帰したように思いました。とはいっても終盤の初号機VS13号機のシーンはロボットアニメではないよなあ…という。どちらかというと特撮っぽい。あえて分かるチープなつくりだったりセットだったりと。これはイマジナリーの描写なのである程度妥当性があるものだったりする。

 

ここから展開して、保守性について。たぶんこの内容が賛否両論ある気がする箇所なんじゃないかと思いましてね。元々旧劇のときから「大人になれよ、三井……」的にオタクに対する主張があったじゃないですか。『シン・エヴァンゲリオン』についてはその主張がかなりマイルドな味わいになりましたね。

 

大人になったシンジが大人になれなかったゲンドウへの接し方とか、1000人ぐらいのコミュニティ(疎開先?)の第三村で災害の現実を引き受けてそれでも生きていくケンケンやトウジとか委員長とか、地道な労働と明日への希望で日々生きる、それが人生だからやっていこうな、という主張。ゲンドウの生命のコモディティ化に反発し、人々がそれぞれの生命と責任をやっていくという主張。戦後、あるいは災害後の復興のために地道に労働し、日々に喜びを見出す、例えば子を育て、その小さな生命体が笑い、稲が実り、収穫できるという喜び。そのために生きているのだと。そんな素朴なところが保守的に映るひとがいることも想像できました。そうした生命の営みの描写に対するいやいや、そうじゃないでしょという批判ね。

 

 

他にも、災害後(戦後、あるいは東日本大震災後)の世界を描くということはある意味ではノスタルジックな描写が、とくに食事をつくるということが重要になるのだなと思った。

たとえばファイナルファンタジーⅥだってシドに生きてもらうためには早く泳ぐ魚をつかまえなきゃいけないじゃないですか。現実には稲を育て、畑を耕し、魚を釣り、メシを喰わねばならんのです。

なんとなくここらへんは宮崎駿的要素もあるかと考えましたね。しかし綾波レイが稲刈りしたかった(素朴な生き方をしたかった、収穫をみんなと喜びたかった)という欲求が叶えられなかったのは仕方ないとして収穫させてやれよ!!!と思った。

 

あとはシンジとゲンドウの対話。この映画をどう切り取るかというポイントとして「成長」や「大人になる」点に異論はないでしょう。もうひとつ考えたいのはQとの比較として「対話」すること、コミュニケーションがキーになっているなあ、と。そもそもQの惨事はみんなシンジに冷たく接しすぎたからじゃねえか、というツッコミが当時あった。

 

ミサトさんが父親に対する接し方は「肩をたたく(お引き取りを願う)のか、殺すしかない(物理的に)」ないといっていました(うろ覚え)が、シンジはそこに対話するという着地点を見出したのがよかったな。うん。

(肩をたたく=物理的なコミュニケーションかな?と思ったけど、どちらかというと隠居してもらうなのかと考えた方がベターなのかと思う。もう少し考えたい。)

 

そういう意味ではミサトさんの考え方もある意味ではQを一部では引きずっているのだけど(Qでシンジとのコミュニケーションを散々拒否していたので)、きっちりみんな最後にコミュニケーション取ろうという意志があったのがよかったですね。ゲンドウのATフィールドに泣いた。その後の半生を語る描写(コミュ障っぷり)がかなりありきたりなところがむしろエヴァ視聴者の全方向に刺さっているぞ、とも思った。

 

話がとっちらかってきたので、以下は箇条書きで。 

 

他にいろいろと気になったシーンとか名前とか

 

イスカリオテのマリア…そこはユダだろうと思ったけどなるほど、ネルフに対する裏切り者という意味でのイスカリオテのマリアなのね。

 

ゴルゴダオブジェクト…アダムの墓があるところとかキリストの処刑地とか。他のキリスト教用語は分からんからスルーした。

 

宇部新川駅…動く電車というのはそれこそ日常を描くための描写だったと思う。震災後の常磐線のように、動かない電車=非常時、定刻通りに動く電車=日常を取り戻したというところ。

 

宇部興産…化学メーカー。他にも日立建機とかコマツとかの重機メーカーが出てきて重厚長大産業!!!ものづくりニッポン!!!シン・ゴジラの「この国はまだまだやれる」を思い出した。ある意味では昭和ニッポン的懐古もある。

 

・全体的に明快なメッセージ性(エヴァンゲリオンを終わらせる)を持っていたので、うがった批評はできないよね。あとはどの価値観から評価するのかという立ち位置の問題のような気がする。

 

以上。また後日加筆修正するかもしれません。

 

さいごに、同じく見終わった友人にLINEしたら帰ってきた言葉が「NEON GENESIS!」の一言だったのに笑った。おれたちのネオン・ジェネシス、やっていこうな。

 

 

 

柴田勝家『ヒト夜の永い夢』2021年読書日記

前回のエントリで同作家、柴田勝家の『アメリカン・ブッダ』という短編集を取り上げましてね。これがまあべらぼうに面白かったので、『ヒト夜の永い夢』も我慢できずに書店へゴー、即座に手に入れた次第です。久しぶりだよ、この興奮は。

 

nkntkr0.hatenablog.com

 

そうそう、個人的なこだわりなんですが、自分で書籍を買う分にはできるだけAmazonではなく、書店で買うようにしています。なぜか、と問われるとそりゃあやっぱり売り上げで貢献したいじゃないですか。日用品とかはAmazonで買ってるわけだけど。本だけはなんか違う気がするんですよね。 

 

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例によって表紙がよい。なにがよいって、読破してからもう一度表紙を隅から隅まで御覧なさい。『ヒト夜の永い夢』の世界観が網羅されてる!!!すげえ!!!と驚くこと間違いないですぜ。なんなら「良優質品」って書いてるしな!!

ということでやっていきましょう。 やっていくとは便利な言葉ですね。

 

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

だいたいこんな話

昭和2年。稀代の博物学者である南方熊楠のもとへ、超心理学者の福来友吉が訪れる。福来の誘いで学者たちの秘密団体「昭和考幽学会」へと加わった熊楠は、そこで新天皇即位の記念行事のため思考する自動人形を作ることに。粘菌コンピュータにより完成したその少女は天皇機関と名付けられるが――時代を築いた名士たちの知と因果が二・二六の帝都大混乱へと導かれていく、夢と現実の交わる日本を描いた一大昭和伝奇ロマン

 

現実とフィクションが交差しまくり。 

なんたって主人公は和歌山が生んだスーパースター、南方熊楠。そこに宮沢賢治やら江戸川乱歩といったこれまた明治から昭和にかけて活躍したスーパースターが登場。はたまた千里眼の研究者福来友吉や東洋初のロボットである學天即を作成した西村真琴も参戦し、そして南方熊楠が加わった秘密団体「昭和考幽学会」は粘菌コンピュータ(!)の天皇機関を作成し……というストーリー。登場人物全員クセが強ええんじゃ。

 

なんだよ、粘菌コンピュータって。2000年代の研究かよ(粘菌コンピュータ自体の研究は実在する)。どう考えてもぶっ飛んでる。最高の伝奇SFです。南方熊楠なら考えていたのかもしれない、というのが南方熊楠らしいところ。

ストーリーだけでいえば荒俣宏帝都物語』や伊藤計劃円城塔屍者の帝国』を連想するかもしれない。だけど魅力は重厚なストーリーだけじゃないんですぜ。その描写も見逃せないんですよ。というわけで、少し描写について触れましょう。

超高カロリーな文体が最高

舞台は昭和初期、2度の戦争勝利と戦後恐慌、関東大震災を経て社会主義運動が日本で勃興する時期です。大正モダンから昭和モダンへの過渡期。そこに南方熊楠という稀代の学者の一人称(?)で語られる文章はこってりとしながらもリズムよく古風な文体で、これがとても良いのです。少し本文から引用してみましょう。

※(?)としたのは最後まで読み終えると合点がいくと思います。

「あれこそ、我らが研究成果」

その呟きを受け、御輿の御簾が開かれた。人々から驚きの息が漏れ、それは巨大な歓声の波となる。

御輿の中にあるもの、それは人の姿をした人ならざるもの。

切り揃えられた黒髪、瞳には月の如く深い輝き。その唇は芙蓉石に似た淡い赤。真白なる肌には絹の光沢。金襴袈裟を纏い、神聖さを漂わせる少女の偶像。

思考する自動人形──天皇機関であった。

タン、と小太鼓を打つ音が一つ。天皇機関はその音に反応し、顔を上げて腕を前へと伸ばす。タンタン。なおも軽快な音は続き、それに合わせて少女の人形が体を動かし、やがて猫の跳躍するように御輿より外へと飛び出した。

ここで人々の熱狂は最高潮となった。

全き神秘の発露である。少女人形は小太鼓の音色によって複雑な動きを果たし、踊るように赤絨毯の上を進んでいく。それを実現するのは粘菌によって作られた人工の神経回路と演算機。機械でありながら、人間を模倣した存在。(p10-p11)

どうですか。この端的でありながら情景がありありと浮かび上がるような描写。いいでしょう。たぶん、ぼくが大学生時代にこの本を読んでたら多少は影響を受けていたと思います。ありますよね、森見登美彦とか舞城王太郎町田康川上未映子の文体真似する時期。そんな文体です。

600ページ以上の長篇ですが、上記のような文体でリーダビリティ溢れているので意外なほどに、そして展開の妙にページを手繰るのが止まりませんぜ。超高カロリーでありながら、決してジャンクな大味ではない。ただ味付けはケレン味溢れている、これがひとつのポイントではないでしょうか。

 

じつは、先ほど引用した文章も含めた本作の冒頭部分が下記リンクから読めるので、ぜひご覧になってください。

 

www.hayakawabooks.com

 

さて、もう一つ語りたいのがやはり粘菌コンピュータを駆使した思考する自動人形のアイデアについて。これは元ネタがいろいろありそうなのでそれを考えるのがこれまた面白い。 

思考する自動人形のアイデアのルーツ探し

これを書く前に読了後のツイートを引用してみます。

 

できるだけ140字で詰め込んだつもりですが、他にも本作のアイデアのルーツは色々とありそうです。なんだよ、サイバー粘菌仏教パンク感って。伝わるのか?

前回のエントリでも触れていますが、著者自身の大学(院)時代の専攻が民俗学ということで、その要素も多分にあるでしょう。

 

ちなみに、上記ツイートの中では荒俣宏帝都物語』はぼく自身まだ読んでいないのである意味では楽しみが増えました。そうそう、筒井康隆『パプリカ』にも触れていますが、どちらかというと今敏監督の映画『パプリカ』のビジュアルがどうしても想起されます。『パプリカ』が好きな人はおそらくこちらの『ヒト夜の永い夢』もハマるはずです。

あとはやはり『屍者の帝国』でしょう。こちらも『ヒト夜の永い夢』同様に、ワトソンやアレクセイ・カラマーゾフ大村益次郎など実在の人物からフィクションの人物まで登場しています。

他にも、機会を動かすパンチカードや「M」という単語、そして、粘菌と意志や脳、ロボット。ある意味では伊藤計劃を意識的に受け継いだストーリーだと個人的に考えています。伊藤計劃以後の日本SFを背負う作家として今後も注目。世代的にも同年代の作家なので、これからも楽しませてもらえそうです。

 

ということで、恐らくは他にも色々な元ネタがありそうですが、ぼくがパっと思い浮かぶのはここまで。逆に言えば、こういったネタに興味がある方にはぜひお薦めしたい小説です。

ぼくの宿題としては、まずは荒俣宏帝都物語』ですかね。まずは映画版を見て嶋田久作の恐ろしさに震えようと思います。

柴田勝家『アメリカン・ブッダ』2021年読書日記

柴田勝家といえば戦国時代の中でも猛将として名を挙げた人物で、その終わりは豊臣秀吉に賤ケ岳の戦い・北ノ庄の戦いで敗れて切腹、自害したという。

現在は両手に斧を持ち無双することで有名ですが、その猛将柴田勝家が現代に転生したらSF作家になったということはみなさまもご存じのことかと思います。これが輪廻転生じゃ。

 

はい、半分ホントで半分ウソをつきました。いや、あながち間違いとも言い切れない。SF作家、柴田勝家。その風貌と挙動、まさに戦国武将の異世界転生した姿じゃないかと。まあ詳しくはググってみるといいです。

 

緊急事態宣言下ですがいかがお過ごしでしょうか。まだまだ寒いので家での読書が捗りますね。今回は柴田勝家アメリカン・ブッダ』です。短編集ながら密度が濃い!

 

ペンネームから醸し出される著者のクセの強そうなプロフィールについて詳細は割愛するとして、今回の『アメリカン・ブッダ』、めちゃくちゃ面白い。今までなぜ読まなかったのだと。知らなかったのかと。

 

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装丁いいですよね。帯にも書かれている通り、著者の小説の主な設定は民俗学×SFといった具合で。それもそのはず、民俗学専攻の文学修士なのだ。その専攻がいかんなく発揮された全六編の短編集、今回は中でもぼくが面白いと感じたものをいくつかピックアップするスタイルで紹介します。

 

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

だいたいこんな話

もしも荒廃した近未来アメリカに、 仏陀を信仰するインディアンが現れたら――未曾有の災害と暴動により大混乱に陥り、国民の多くが現実世界を見放したアメリカ大陸で、仏教を信じ続けたインディアンの青年が救済を語る書下ろし表題作のほか、VR世界で一生を過ごす少数民族を描く星雲賞受賞作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」、『ヒト夜の永い夢』前日譚にして南方熊楠の英国留学物語の「一八九七年:龍動幕の内」など、民俗学とSFを鮮やかに交えた6篇を収録する、柴田勝家初の短篇集。解説:池澤春菜

全六編は以下の通りです。

雲南省スー族におけるVR技術の使用例
鏡石異譚
邪義の壁
一八九七年:龍動幕の内
検疫官
アメリカン・ブッダ

 

どれもこれもハズレなし。この短編集で打線を組んだらいい感じなんじゃないかと。あと3編必要だけど。今回はその中でも『一八九七年:龍動幕の内』『検疫官』『アメリカン・ブッダについて語りたいと思います。 

『一八九七年:龍動幕の内』

舞台は19世紀末イギリス。主人公はみんな大好き和歌山が生んだスーパースター南方熊楠異世界転生ものの主人公よりも異世界転生ものの主人公っぽい実在の人、南方熊楠。その博覧強記、知的化物ぶりはチートそのもの。曼荼羅のごとき知識を持つ彼をフィクションの主人公に据えたらそりゃあなんでもできますよ、って話ですが、ここに孫文というこれまた中華民国の国父をバディに事件解決に乗り出すってストーリー、そりゃあ面白いに決まってるじゃないですか!

スチームパンクの世界観に切れ者2人のバディもの、そこに「天使を探す」という探偵風のエッセンスを加えており、これが抜群に面白い。必ずやこの2人のストーリーまだまだ見たい!と思うはず。

と思ってたら、なんとこの『一八九七年:龍動幕の内』、続きがありまして『ヒト夜の永い夢 』という小説の前日譚とのこと。これもまた読まなければ!なんとなく映画化、アニメ化しそうな雰囲気があります。

 

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:柴田 勝家
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 文庫
 

 

 

『検疫官』

舞台は恐らく西アフリカの架空の国。空港で働く検疫官が主人公。検疫官といっても国内に持ちこませないのは新型コロナウイルスのような感染症ではない。

身体よりも思想に害をもたらすもの、あらゆる「物語」を徹底的に検疫する。このお話は「物語」を世界で唯一感染症とする国での「物語」。

このディストピアでは物語がご法度。

人間を人間たらしめるものはなにか?それは想像することではないか。とぼくなんかは思ったりするわけです。ちなみに「想像力が権力を奪う」という言葉が好きです。カルチェラタン

カルチェラタンの落書きには他にも「禁止することを禁止する」という落書きがあるのですが、さて、「物語」の国内流通を喰い止めることに腐心する主人公はどうなるのか?

ある日、空港に外国からの子どもがやってくることからストーリーは始まるのですが……

この国では歴史もなく、対立もなく、宗教もなく、だからこそみんなが対等。物語を徹底的に排除すれば争いは無くなるのか?そういった思考実験の要素が多分にあり、いろいろと創造を掻き立てられるものです。

また、ある意味では感染症がどのようにして伝播するかを描いた小説なので、いまこのタイミングで読むと別の意味でも味わい深いものになりました。

アメリカン・ブッダ

大洪水という未曾有の災害と暴動により大混乱に陥ったアメリカ。そして現実世界を見放したアメリカ人が多く移住した架空現実の「Mアメリカ」が舞台。ミラクルマンというネイティブ・アメリカン仏陀の福音を「Mアメリカ」の住人に語り、その啓蒙から「Mアメリカ」の住人もやがて架空現実から戻るもの、居留まるものに分かれ……というお話。

ベースにあるのはやはり仏教らしく、四苦八苦(四苦:生苦、老苦、病苦、死苦。八苦:愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)やブラフマンといったものがテーマ。これを頭の片隅に入れておくと面白いかもしれません。ということで、読む前に一度仏教についてさらっておくと数倍楽しめます。

本筋も面白いのだけれど、もしネイティブ・アメリカンが仏教を信仰していたら?という想像も興味深い。

たとえば、ネイティブ・アメリカンアニミズムシャーマニズムと仏教が交差することで、コヨーテやハクトウワシといったネイティブ・アメリカンの象徴が仏教における生老病死の寓話の登場人物となることとか。

ミラクルマンが偉大なる精霊(グレートスピリット)にアメリカを救うように頼まれ……と語るくだりがあるのだけど、おお!シャーマンキングやんけ!とテンションが上がったり。

あとはそうですね、読了後のちょっと興奮しているツイートでも張り付けておきましょうか。ここでは封神演義の歴史の道標のことについても考えてた模様。

 

まとめ

ということで、今回は短編集の紹介でした。短いものであれば20ページくらいのものもあり、おそらくSFになじみのない人でもすいすい読めるんじゃないかと。

あるいはむしろ、骨太長編ものでどういう作風になるのかというのも気になりますね。柴田勝家氏、まだ33歳という若武者なのでこれからどう出世するのか楽しみな作家ですね。そうそう、解説の池澤春菜さんの文章がキレキレでこれも大変よかったです。