なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

知識で殴れ!言語で世界を○○しろ!/ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』

年初に今年はいろいろと書いていきたいよねと述べたもののダビスタswitchとか競馬の予想とかでなかなか筆を執る機会をつくらずにおりました。久しぶりに書こうかね。

ということで、今回はローラン・ビネ『言語の七番目の機能』です。ローラン・ビネについては以前『HHhH』について書いたエントリがあります。もう7年前のエントリですか。

歴史叙述の困難を物語るメタフィクションーローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』ー - なんかいいことおまへんか!! (hatenablog.com)

 

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ローラン・ビネ、『HHhH』でも唸ったけど小説としては一癖も二癖もある作品を書き上げる作家ですね。今回の『言語の七番目の機能』なんて記号学と80年代前後に生きた学者がめちゃくちゃ出る作品ですから、割ととっつきにくいイメージがあるかも。

さて本書、学生時代は文学部で歴史学専攻してた自分ですが、記号学とか言語学とかは一般教養+αの知識があるかないかくらいなので正直ロラン・バルトなんて読んでないし大丈夫か、と思いながら読み進めました。途中、「言語論的転回」とか歴史学専攻には馴染みのある言葉もこの小説には出てきます。それはさておき、うん、やはりエンターテイメント的にはすこぶる楽しめたけど、これはもう少し自分自身にレベルアップが必要だなというのが感想ですね。そういった意味では向学心をくすぐる一冊だと思います。

導入が長くなったけど、だいたいこんな話。

大統領候補ミッテランとの会食直後、交通事故で死亡した哲学者、記号学ロラン・バルト。彼の手許からはある文書が消えていた。これは単なる事故ではない!誰がバルトを殺したのか?捜査にあたるバイヤール警視と若き記号学者シモン。この二人以外の主要登場人物のほぼすべてが実在の人物たち。フーコーデリダエーコクリステヴァソレルスアルチュセールドゥルーズガタリギベールミッテラン……という綺羅星のごとき人々。謎の秘密クラブ〈ロゴス・クラブ〉とは? フィクションと真実について、言葉の持つ力への愛を描く傑作! 訳者あとがき=高橋啓

言語の七番目の機能 - ローラン・ビネ/高橋啓 訳|東京創元社

  

言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)

言語の七番目の機能 (海外文学セレクション)

 

 

本書、ある意味では若い言語学者と壮健な警察官のバディもの(シャーロック・ホームズとワトソン的な)だし、消えた文書を探すミステリものだし、実在の人物(フーコーデリダエーコとかめっちゃ出てくる)がめちゃくちゃに描かれてるし(よく訴訟されなかったね)、やたらめったら小難しい言葉が出てくる衒学小説でもあり、ファイト・クラブよろしくタイマンでの言葉バトルを繰り出す知の格闘小説といったいろんな要素を詰め込んだ小説。

なので、書評も一筋縄にはいかねえ、といったところが正直な感想です。というか、自分は本当にこの小説を理解できているのか、という気持ち。試されてる感ある。

いや、めちゃくちゃに面白いんですよ。でも、実在の学者や政治家が出てくる小説なので、その予備知識があればもっと楽しめたんだろうな、と。
※いろいろな理論とか小難しい言葉は一般人代表のバイヤール警視と学者シモンのやり取りによって解説されますのでご安心を。

 

たとえば、言語の七番目の機能ということは言語の1~7の機能について言及するのが予想される。じゃあその意味するところは、というとヤコブソンというロシアの言語学者が提唱した「言語の六つの機能」を下敷きにしている、ということを知っておいた方が楽しめるし、フーコーが性的にめちゃくちゃやってんな!ということも知っておくと、ああなるほどね、とニヤリとなるし、ウンベルト・エーコめちゃくちゃすげえな!!!!というのも、もしかしたらエーコの著作を読んでおいた方が数倍楽しめるかもしれない。他にもパラノイアスキゾイドとかあるいは80年代のフランスの政治とかも軽く触れておくといいのかもしれない。だってミッテランとかシラク志らくに変換された)とかは世界史の中の人物なので。

 

だからなのか。帯にも書いてあるように著者が「エーコ+『ファイト・クラブ』を書きたかった」と述べているんですかね。膨大な知識を詰め込んだ小説。

 

そうそう、先ほど軽く触れましたが『言語の七番目の機能』には<ロゴス・クラブ>という「ファイト・クラブ」をなぞった知の格闘技が出てきます。この舞台設定が非常によい。ある一つのテーマを肯定する立場/否定する立場に分かれて論じる2人がその優劣を競うのだけど、負けたらめちゃくちゃ悲惨。ある意味では「ファイト・クラブ」の敗者よりも身体に深い痛手を負っている可能性ある。なので、本当に知で知を洗うバトルが繰り広げられていて、その描写と知的な要素に唸ってしまった。

 

あとは読み進めて思ったのは言語の七番目の機能とは何かといえば、伊藤計劃虐殺器官』に出てくるアレかというのが思い浮かびました。これは日本のSF好きならではの特権かもしれません。これ以上書くとどちらのネタバレにもつながるので割愛します。

 

最後に、ローラン・ビネは『HHhH』でもそうであったように、「小説」という枠組みを存分に活かした展開が特徴的。たとえば、

小説は夢ではない。小説の中で死ぬことだってあるのだ。とはいえ、ふつうなら、主人公が殺されてしまうことはない。ただし、時と場合によって、物語の終わりで死ぬことはあるとしても。

 でも、これが物語の終わりじゃないって、どうしてわかる?自分がいま、人生のどのページにいるなんて、どうしてわかる?人生の最後のページまで来たことをどうして知ることができる? p375 

なんて具合に。これは主人公の一人、シモンの独白なのだけど、彼は小説の中で創作された人物で、これを小説の主人公に言わせるのかね、というところが彼の小説の面白さなんじゃないかと。他にも、主人公シモンの一人称と作者の視点が絡みあうところがあったり、複雑な構成も見事。

小説ってここまで構成が練られているものだと実感するには最適な一冊だと思います。あと、少しだけ頭が良くなった感得られるかも。GWのおともにぜひ。

柴田勝家『ヒト夜の永い夢』2021年読書日記

前回のエントリで同作家、柴田勝家の『アメリカン・ブッダ』という短編集を取り上げましてね。これがまあべらぼうに面白かったので、『ヒト夜の永い夢』も我慢できずに書店へゴー、即座に手に入れた次第です。久しぶりだよ、この興奮は。

 

nkntkr0.hatenablog.com

 

そうそう、個人的なこだわりなんですが、自分で書籍を買う分にはできるだけAmazonではなく、書店で買うようにしています。なぜか、と問われるとそりゃあやっぱり売り上げで貢献したいじゃないですか。日用品とかはAmazonで買ってるわけだけど。本だけはなんか違う気がするんですよね。 

 

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例によって表紙がよい。なにがよいって、読破してからもう一度表紙を隅から隅まで御覧なさい。『ヒト夜の永い夢』の世界観が網羅されてる!!!すげえ!!!と驚くこと間違いないですぜ。なんなら「良優質品」って書いてるしな!!

ということでやっていきましょう。 やっていくとは便利な言葉ですね。

 

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

だいたいこんな話

昭和2年。稀代の博物学者である南方熊楠のもとへ、超心理学者の福来友吉が訪れる。福来の誘いで学者たちの秘密団体「昭和考幽学会」へと加わった熊楠は、そこで新天皇即位の記念行事のため思考する自動人形を作ることに。粘菌コンピュータにより完成したその少女は天皇機関と名付けられるが――時代を築いた名士たちの知と因果が二・二六の帝都大混乱へと導かれていく、夢と現実の交わる日本を描いた一大昭和伝奇ロマン

 

現実とフィクションが交差しまくり。 

なんたって主人公は和歌山が生んだスーパースター、南方熊楠。そこに宮沢賢治やら江戸川乱歩といったこれまた明治から昭和にかけて活躍したスーパースターが登場。はたまた千里眼の研究者福来友吉や東洋初のロボットである學天即を作成した西村真琴も参戦し、そして南方熊楠が加わった秘密団体「昭和考幽学会」は粘菌コンピュータ(!)の天皇機関を作成し……というストーリー。登場人物全員クセが強ええんじゃ。

 

なんだよ、粘菌コンピュータって。2000年代の研究かよ(粘菌コンピュータ自体の研究は実在する)。どう考えてもぶっ飛んでる。最高の伝奇SFです。南方熊楠なら考えていたのかもしれない、というのが南方熊楠らしいところ。

ストーリーだけでいえば荒俣宏帝都物語』や伊藤計劃円城塔屍者の帝国』を連想するかもしれない。だけど魅力は重厚なストーリーだけじゃないんですぜ。その描写も見逃せないんですよ。というわけで、少し描写について触れましょう。

超高カロリーな文体が最高

舞台は昭和初期、2度の戦争勝利と戦後恐慌、関東大震災を経て社会主義運動が日本で勃興する時期です。大正モダンから昭和モダンへの過渡期。そこに南方熊楠という稀代の学者の一人称(?)で語られる文章はこってりとしながらもリズムよく古風な文体で、これがとても良いのです。少し本文から引用してみましょう。

※(?)としたのは最後まで読み終えると合点がいくと思います。

「あれこそ、我らが研究成果」

その呟きを受け、御輿の御簾が開かれた。人々から驚きの息が漏れ、それは巨大な歓声の波となる。

御輿の中にあるもの、それは人の姿をした人ならざるもの。

切り揃えられた黒髪、瞳には月の如く深い輝き。その唇は芙蓉石に似た淡い赤。真白なる肌には絹の光沢。金襴袈裟を纏い、神聖さを漂わせる少女の偶像。

思考する自動人形──天皇機関であった。

タン、と小太鼓を打つ音が一つ。天皇機関はその音に反応し、顔を上げて腕を前へと伸ばす。タンタン。なおも軽快な音は続き、それに合わせて少女の人形が体を動かし、やがて猫の跳躍するように御輿より外へと飛び出した。

ここで人々の熱狂は最高潮となった。

全き神秘の発露である。少女人形は小太鼓の音色によって複雑な動きを果たし、踊るように赤絨毯の上を進んでいく。それを実現するのは粘菌によって作られた人工の神経回路と演算機。機械でありながら、人間を模倣した存在。(p10-p11)

どうですか。この端的でありながら情景がありありと浮かび上がるような描写。いいでしょう。たぶん、ぼくが大学生時代にこの本を読んでたら多少は影響を受けていたと思います。ありますよね、森見登美彦とか舞城王太郎町田康川上未映子の文体真似する時期。そんな文体です。

600ページ以上の長篇ですが、上記のような文体でリーダビリティ溢れているので意外なほどに、そして展開の妙にページを手繰るのが止まりませんぜ。超高カロリーでありながら、決してジャンクな大味ではない。ただ味付けはケレン味溢れている、これがひとつのポイントではないでしょうか。

 

じつは、先ほど引用した文章も含めた本作の冒頭部分が下記リンクから読めるので、ぜひご覧になってください。

 

www.hayakawabooks.com

 

さて、もう一つ語りたいのがやはり粘菌コンピュータを駆使した思考する自動人形のアイデアについて。これは元ネタがいろいろありそうなのでそれを考えるのがこれまた面白い。 

思考する自動人形のアイデアのルーツ探し

これを書く前に読了後のツイートを引用してみます。

 

できるだけ140字で詰め込んだつもりですが、他にも本作のアイデアのルーツは色々とありそうです。なんだよ、サイバー粘菌仏教パンク感って。伝わるのか?

前回のエントリでも触れていますが、著者自身の大学(院)時代の専攻が民俗学ということで、その要素も多分にあるでしょう。

 

ちなみに、上記ツイートの中では荒俣宏帝都物語』はぼく自身まだ読んでいないのである意味では楽しみが増えました。そうそう、筒井康隆『パプリカ』にも触れていますが、どちらかというと今敏監督の映画『パプリカ』のビジュアルがどうしても想起されます。『パプリカ』が好きな人はおそらくこちらの『ヒト夜の永い夢』もハマるはずです。

あとはやはり『屍者の帝国』でしょう。こちらも『ヒト夜の永い夢』同様に、ワトソンやアレクセイ・カラマーゾフ大村益次郎など実在の人物からフィクションの人物まで登場しています。

他にも、機会を動かすパンチカードや「M」という単語、そして、粘菌と意志や脳、ロボット。ある意味では伊藤計劃を意識的に受け継いだストーリーだと個人的に考えています。伊藤計劃以後の日本SFを背負う作家として今後も注目。世代的にも同年代の作家なので、これからも楽しませてもらえそうです。

 

ということで、恐らくは他にも色々な元ネタがありそうですが、ぼくがパっと思い浮かぶのはここまで。逆に言えば、こういったネタに興味がある方にはぜひお薦めしたい小説です。

ぼくの宿題としては、まずは荒俣宏帝都物語』ですかね。まずは映画版を見て嶋田久作の恐ろしさに震えようと思います。

柴田勝家『アメリカン・ブッダ』2021年読書日記

柴田勝家といえば戦国時代の中でも猛将として名を挙げた人物で、その終わりは豊臣秀吉に賤ケ岳の戦い・北ノ庄の戦いで敗れて切腹、自害したという。

現在は両手に斧を持ち無双することで有名ですが、その猛将柴田勝家が現代に転生したらSF作家になったということはみなさまもご存じのことかと思います。これが輪廻転生じゃ。

 

はい、半分ホントで半分ウソをつきました。いや、あながち間違いとも言い切れない。SF作家、柴田勝家。その風貌と挙動、まさに戦国武将の異世界転生した姿じゃないかと。まあ詳しくはググってみるといいです。

 

緊急事態宣言下ですがいかがお過ごしでしょうか。まだまだ寒いので家での読書が捗りますね。今回は柴田勝家アメリカン・ブッダ』です。短編集ながら密度が濃い!

 

ペンネームから醸し出される著者のクセの強そうなプロフィールについて詳細は割愛するとして、今回の『アメリカン・ブッダ』、めちゃくちゃ面白い。今までなぜ読まなかったのだと。知らなかったのかと。

 

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装丁いいですよね。帯にも書かれている通り、著者の小説の主な設定は民俗学×SFといった具合で。それもそのはず、民俗学専攻の文学修士なのだ。その専攻がいかんなく発揮された全六編の短編集、今回は中でもぼくが面白いと感じたものをいくつかピックアップするスタイルで紹介します。

 

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

だいたいこんな話

もしも荒廃した近未来アメリカに、 仏陀を信仰するインディアンが現れたら――未曾有の災害と暴動により大混乱に陥り、国民の多くが現実世界を見放したアメリカ大陸で、仏教を信じ続けたインディアンの青年が救済を語る書下ろし表題作のほか、VR世界で一生を過ごす少数民族を描く星雲賞受賞作「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」、『ヒト夜の永い夢』前日譚にして南方熊楠の英国留学物語の「一八九七年:龍動幕の内」など、民俗学とSFを鮮やかに交えた6篇を収録する、柴田勝家初の短篇集。解説:池澤春菜

全六編は以下の通りです。

雲南省スー族におけるVR技術の使用例
鏡石異譚
邪義の壁
一八九七年:龍動幕の内
検疫官
アメリカン・ブッダ

 

どれもこれもハズレなし。この短編集で打線を組んだらいい感じなんじゃないかと。あと3編必要だけど。今回はその中でも『一八九七年:龍動幕の内』『検疫官』『アメリカン・ブッダについて語りたいと思います。 

『一八九七年:龍動幕の内』

舞台は19世紀末イギリス。主人公はみんな大好き和歌山が生んだスーパースター南方熊楠異世界転生ものの主人公よりも異世界転生ものの主人公っぽい実在の人、南方熊楠。その博覧強記、知的化物ぶりはチートそのもの。曼荼羅のごとき知識を持つ彼をフィクションの主人公に据えたらそりゃあなんでもできますよ、って話ですが、ここに孫文というこれまた中華民国の国父をバディに事件解決に乗り出すってストーリー、そりゃあ面白いに決まってるじゃないですか!

スチームパンクの世界観に切れ者2人のバディもの、そこに「天使を探す」という探偵風のエッセンスを加えており、これが抜群に面白い。必ずやこの2人のストーリーまだまだ見たい!と思うはず。

と思ってたら、なんとこの『一八九七年:龍動幕の内』、続きがありまして『ヒト夜の永い夢 』という小説の前日譚とのこと。これもまた読まなければ!なんとなく映画化、アニメ化しそうな雰囲気があります。

 

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

ヒト夜の永い夢 (ハヤカワ文庫JA)

  • 作者:柴田 勝家
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 文庫
 

 

 

『検疫官』

舞台は恐らく西アフリカの架空の国。空港で働く検疫官が主人公。検疫官といっても国内に持ちこませないのは新型コロナウイルスのような感染症ではない。

身体よりも思想に害をもたらすもの、あらゆる「物語」を徹底的に検疫する。このお話は「物語」を世界で唯一感染症とする国での「物語」。

このディストピアでは物語がご法度。

人間を人間たらしめるものはなにか?それは想像することではないか。とぼくなんかは思ったりするわけです。ちなみに「想像力が権力を奪う」という言葉が好きです。カルチェラタン

カルチェラタンの落書きには他にも「禁止することを禁止する」という落書きがあるのですが、さて、「物語」の国内流通を喰い止めることに腐心する主人公はどうなるのか?

ある日、空港に外国からの子どもがやってくることからストーリーは始まるのですが……

この国では歴史もなく、対立もなく、宗教もなく、だからこそみんなが対等。物語を徹底的に排除すれば争いは無くなるのか?そういった思考実験の要素が多分にあり、いろいろと創造を掻き立てられるものです。

また、ある意味では感染症がどのようにして伝播するかを描いた小説なので、いまこのタイミングで読むと別の意味でも味わい深いものになりました。

アメリカン・ブッダ

大洪水という未曾有の災害と暴動により大混乱に陥ったアメリカ。そして現実世界を見放したアメリカ人が多く移住した架空現実の「Mアメリカ」が舞台。ミラクルマンというネイティブ・アメリカン仏陀の福音を「Mアメリカ」の住人に語り、その啓蒙から「Mアメリカ」の住人もやがて架空現実から戻るもの、居留まるものに分かれ……というお話。

ベースにあるのはやはり仏教らしく、四苦八苦(四苦:生苦、老苦、病苦、死苦。八苦:愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦)やブラフマンといったものがテーマ。これを頭の片隅に入れておくと面白いかもしれません。ということで、読む前に一度仏教についてさらっておくと数倍楽しめます。

本筋も面白いのだけれど、もしネイティブ・アメリカンが仏教を信仰していたら?という想像も興味深い。

たとえば、ネイティブ・アメリカンアニミズムシャーマニズムと仏教が交差することで、コヨーテやハクトウワシといったネイティブ・アメリカンの象徴が仏教における生老病死の寓話の登場人物となることとか。

ミラクルマンが偉大なる精霊(グレートスピリット)にアメリカを救うように頼まれ……と語るくだりがあるのだけど、おお!シャーマンキングやんけ!とテンションが上がったり。

あとはそうですね、読了後のちょっと興奮しているツイートでも張り付けておきましょうか。ここでは封神演義の歴史の道標のことについても考えてた模様。

 

まとめ

ということで、今回は短編集の紹介でした。短いものであれば20ページくらいのものもあり、おそらくSFになじみのない人でもすいすい読めるんじゃないかと。

あるいはむしろ、骨太長編ものでどういう作風になるのかというのも気になりますね。柴田勝家氏、まだ33歳という若武者なのでこれからどう出世するのか楽しみな作家ですね。そうそう、解説の池澤春菜さんの文章がキレキレでこれも大変よかったです。

『人新世の「資本論」』年末年始読書2020~2021その3

果たしてこのタイミングで年末年始と呼べるのか。ともかく、読んだのは年末年始なので今回を限りにこの表題は打ち止めですね。

 

今回読んだのは、斎藤幸平『人新世の「資本論」』です。ちょうどNHKの「100分de名著」でもマルクスの『資本論』は取り上げられてましたからね。乗るしかない、このビッグウェーブに。

 

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

  • 作者:斎藤 幸平
  • 発売日: 2020/09/17
  • メディア: 新書
 

 

なぜいまマルクスなのか、資本論なのか。

だって、働けど働けどわが暮らしなお楽にならざり、じゃないですか。ぢっと手を見るじゃないですか。格差社会、能力のない人間は低賃金でOK、努力できないのは本人のせい、果ては障害も病気も自己責任に帰結される、そんな価値観で覆いつくされている日本社会なので、それを迎え撃つ言説を期待するじゃないですか。ふざけんなという狼煙を期待するじゃないですか。それがマルクス資本論というのには期待するじゃないですか。

 

そういえば2020年前半には資本論関連の著作で白井聡『武器としての「資本論」』も出版されましたね。時代の機運が資本主義(の限界)や資本主義に覆いつくされた現代社会の違和感について考えることを後押ししているのではないでしょうか。

 

ぼく自身もこちらの『人新世の資本論」』と合わせて『武器としての「資本論」』は読みました。本丸のマルクス資本論』に挑戦するのは難解すぎてお手上げ状態なので入門書でお茶を濁そうという算段です。それではやっていきましょう。

 

だいたいこんな話

人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。 気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。 それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。 いや、危機の解決策はある。 ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。 世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!人新世の「資本論」 – 集英社新書 (shueisha.co.jp)

ちなみに章立てとしてはこんな感じです。

第1章:気候変動と帝国的生活様式 
第2章:気候ケインズ主義の限界
第3章:資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章:「人新世」のマルクス
第5章:加速主義という現実逃避
第6章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章:脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章:気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために

 

新書ですが、およそ365Pというしっかりとしたボリュームなので全部について書きだすとキリがないので、全体の感想やまとめと個人的に興味深かった第6章の欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズムについて取り上げようと思います。

 

人新世とマルクス

まずは全体の感想とまとめから。

『人新世の「資本論」』の全体的なテーマ。それは地球温暖化を食い止めるには、いまの資本主義というシステムではダメで、ではどうするのか?

マルクスが到達した「脱成長コミュニズムというシステムにあるのでは?というとことです。

 

パッと見て、かなり大上段に振りかぶった構想だな、とぼくは思いましてね。というのも、環境問題も労働問題もマルクスも表面上は繋がりが見えないのですから。

言ってしまえば、最初の導入部を読んでる段階では、ぼくの心の中の関暁夫が「この理論、信じるか信じないかはあなた次第です」とニヤリとつぶやいたものです。かなりアクロバティックな紐づけをしているな、と。

一見すると危うい紐づけに思える構想を、快刀乱麻を断つような論理展開で解きほぐす手法は見事です。前半部分での僕の心の中の関暁夫は読み進めるうちにいつの間にかどこかに行ってしまった。

 

また、想定されることの一つである、共産主義社会や社会主義は困窮を招いて失敗に終わっているじゃないか、という指摘への反駁も用意されています。とはいえ、全体を見てみるといくつかの点で批判的にならざるを得ないですが。これについては後述します。

 

さて、簡単にまとめてみましょう。

 

耳慣れない言葉である「人新世(ひとしんせい)」ですが、由来はノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが提唱したもので、「地質学的に見て、地球は新たな年代に突入した、それが人新世であり、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」という意味。

 

人新世では、とりわけ、人類の営みによって温室効果ガスのひとつである大気中の二酸化炭素の排出量が加速度的に増えており、異常気象や地球温暖化の原因となっています。

 

二酸化炭素排出量を減らすには資本主義経済の元での経済成長では二酸化炭素排出を十分な速さで削減するには不可能であることが本書の第二章で示されています。他にも科学技術の発展に期待することの困難さなどが全体の前半部分で割かれています。

 

では人新世での地球温暖化に立ち向かうにはどうすればよいのか?

そこで第四章「人新世」のマルクスの章において、資本主義批判とポスト資本主義を考えるためにマルクス資本論を持ち出すわけです。これこそが『人新世の「資本論」』の主題だといえるでしょう。

 

特にカギとなるのが「コモン」コミュニズム「アソシエーション」という概念です。

なぜいまマルクスなのか、という視点にも「MEGA(マルクス・エンゲルス全集)」という国際的プロジェクトが進んでおり、そこに今までになかった新しい視座があると著者は述べています。

その視座とは、今までのマルクス像であった「生産力至上主義」からの大転換「脱成長コミュニズムであり、著者の試みは、人新世での環境問題に立ち向かうためにマルクスが到達した「脱成長コミュニズム」を理論化、実現を構想することにあります。

このようなことが本書の全体の流れとなります。その流れの中でマルクスが提示した概念である「価値」と「使用価値」、「自然的物質代謝」などを用いて議論を進めていきます。

 

この中で「価値」と「使用価値」について特に触れる機会の多い第六章:欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム について考えてみたいと思います。

 

欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム

毎朝満員電車に詰め込まれ、コンビニの弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら、連日長時間働く生活に比べれば、はるかに豊かな人生だ。そのストレスを、オンライン・ショッピングや高濃度のアルコール飲料で解消しなくてもいい。自炊や運動の時間が取れるようになれば、健康状態も大幅に改善するに違いない。

私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働きすぎた。一生懸命に働くのは、資本にとって非常に都合がいい。……p267

悲しみに溢れる文章ですね。これを書いているのは休日なのですが、平日はいつもいつもこんな感じです。労働!飲酒!いつの間にか終わっている休日!これが毎日!それはもう絶望しか感じないじゃないですか。世の中に跳梁跋扈するブラック企業、まさに現代の奴隷制。じつはマルクスも資本主義に生きる労働者のあり方を奴隷制と呼んでいたとのこと(p253)。

しかも労働者は使い捨て、「お前の替わりはいくらでもいる」という言葉も労働者を追い詰めるありふれた言葉になっています。

第六章が面白いのは、これまでの章で環境問題を中心に扱っていたところに、労働問題を置いたところにあると思います。それがまさに自分が置かれている状況と重なり、リアルなこととして捉えられることができるようになったからでしょう。

(前半の章でも、グローバル・サウスの問題に触れていましたが、それを近くのものとして捉えると第六章につながるかと思います)

 

他にも「使用価値」と「価値」を用いてブランド化や広告にかかるコストなど、希少性を高めるための営みとそれを求める消費者について第六章では書かれています。

ちなみに、この消費社会批判はボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に詳しいので興味のある方はそちらもぜひ。

 

消費社会の神話と構造 新装版

消費社会の神話と構造 新装版

 

 

資本主義社会が先鋭化すればするほど、われわれの生活のあれこれに金銭を支払う必要があります。

例えば、水。ミネラルウォーターだけでなく、いまや水道でさえ民間委託するような機運があり、公共サービスが解体されようとしています。そうなると、水は資本主義の名のもとに希少性を高めていくことが予想されます。果たしてそれでいいのか。

 

そうではなくそれは水や電気、さらには労働者でさえも「コモン」として著者の言葉を借りれば「<市民>営化」することで持続可能な経済へ移行が可能だと述べられています。ひいては、それが「ラディカルな潤沢さ」が回復され、貨幣に依存しない領域が拡大し脱成長につながっていくと。

 

このようにして第六章が進み、ではどのようにして脱成長コミュニズムを進め「ラディカルな潤沢さ」を回復していくのか?本書はその先を提示しているのですが、ぜひその先は読んでのお楽しみに……といいたいところですが、最後にまとめとしてあえて気になったことを書いて筆を置きたいと思います。

 

わたしたちは価値観を転換できるのか

「脱成長コミュニズム」へと進む道は果てしなく険しいもので、実装は難しいのではないか、ということが、この本を読んでの読後の感想に他ならないのです。

たとえば、この実装は政治的な権力や経済的な権力を持つ層との対立、あるいは抵抗が予期されることがはっきりとわかるでしょう。日本でいえば昨今当たり前のように使われるようになった「上級国民」との対立。

もうこれはあれですかね。共産党宣言での「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という革命へと至る道なのでしょうか。

それでなくとも、資本主義社会に漬かりきった自分自身がどのようにして不自由を甘受するか、その覚悟はあるのか?という問いにも答えを窮するでしょう。

 

いずれにせよ、恐らくは本書を読んで様々な反応を自分自身の中に得られるかと思います。信じるか信じないかは、あなた次第。

 

結局、関暁夫かよ!!というところで締めたいと思います。じゃあの。