なんかいいことおまへんか!!

健康で文化的な生活について。つまり、ダイエットと、文学と、映画。

『ニンフォマニアック Vol.1 Vol.2』セリグマンを笑ってはいけない。

 先週、『ニンフォマニアック Vol.1』を渋谷で見て、昨日更にVol.2を鑑賞してきた。色々と考えることがあったので、メモ書き含めてダダっと書いていきたい。

 ラース・フォン・トリアー監督作品を観るのは初めてだというくらいに、僕は映画については素人だ。感想が的外れなこともあるかもしれないけど、そこはどうかご容赦を。

 盛大にネタバレ含むからな!!!!

 wikiからストーリーを引用。

概要
性的にむき出しのドラマであり、色情狂を自認する女ジョーの誕生から50歳までのエロスの旅をあつかう。
寒い冬の夜、年配のイケメン独身者セリグマンは裏路地でぶちのめされたジョーを見つける。セリグマンは彼女を家に連れ込んでケガの治療をし、彼女の人生について尋ねる。ジョーは高度にエロティックな人生についての淫欲にまみれた物語を8章にわたって語る。セリグマンは読書家でいろんな知識を持っている。彼はジョーの物語を、本で読んだことに関連付けてゆく。
話は二巻・8章に分けられ、「第一巻」では若いジョーをステイシー・マーティンが、「第二巻」では後半生をシャルロット・ゲンズブールが演じる。
第一巻
「コンプリートアングラー」
「ジェローム
「ミセスH」
「せん妄」
「リトル·オルガン·スクール」
第二巻
東方教会西方教会(サイレントダック)」
「鏡」
「銃」

 

 まず、Vol.1とVol.2を比較しての演出について。

 Vol.1は冒頭、恐らく舞台はイギリス?(通貨がポンドなのと、雨がしとしと降るシーンから推察)で、主人公のジョーが雨の裏路地で倒れているのを、博識の老人(ユダヤ仁で無宗教者!)のセリグマンが発見するシーンから始まる。が、この発見するシーンまで、ひたすら路地に雨が降る音が館内に響く。ぴちゃぴちゃしたたるシーンは、視覚よりも聴覚に訴える。

 聴覚的な想像力に任せると、それは単に雨が降る音ではなく、官能的な響きに変わる。っつーか、童貞的想像力だとどう考えてもアレだよ。何がクニだよ!ってののアレ、だよ!!

 鑑賞者の想像力を聴覚にシフトさせておいて、そこからのラムシュタイン!ゴリゴリのロック。陰鬱→躁のぶっとび具合。これからどう描かれるかを期待させる演出。

 

 Vol.2は、1の導入部のように聴覚的な揺さぶりで来るのか、と思いきや今度は視覚的な揺さぶり。主人公のジョーが12歳の時に、啓示的な体験をするシーン。草原の中に赤い服を着た少女。草原は風を受けてなびいている。そこの真ん中に寝転がるジョー。どう考えても( )です。本当にありがとうございました。

 

 こんな感じで、Vol.1とVol.2は対比して描かれている。ストーリー自体もこういった二項対立であらかた説明出来そうな気はするけど、それは野暮なものって感じだ。というのも、この映画のストーリーは、次のような形式で進行する。ジョーが自身の色情狂について客観的な目線=鑑賞者の視点でセリグマンに語り、セリグマンは絵画、釣り、数学、音楽、宗教学、心理学の知識を動員してジョーを分析しようとする。でもこの分析がそもそもアカンのでは、ということを提示している。

 映画的演出については、さすが巨匠と言われるだけあって、随所に遊び心や比喩を配置していて、それを分析する楽しみを提示している…が、それさえも、一段高次元のところからトリアーはそれを見通し、んんん?でも解釈しちゃっていいの?と示唆している。とりわけ、この映画の大オチがそれを物語っているだろう。

 自らの性遍歴を語るジョーとそれを分析するセリグマンの対比は、そのまま映画監督と映画評論家(鑑賞者)の対比に持ち込むことが出来る。そして、ジョーはセリグマンに語りかけるとき、冒頭に「あなたが理解できるなら…話してもいいわ」と前置きをしている。ここでセリグマンは、理解すること=分析することと勘違いをしている。実際に、ジョーの色情狂は分析して分類して、処方することができるのだと。これって、まさに作成者と批評者の構成じゃないのか?

 

 ジョーの色情狂は、幼少期のトラウマに端を発する、なんてことはない。愛情深い父親に、少し無関心な母親。どこにでもあるような家族像だ。色情狂になる理由は描かれていない。もはや、ジョーは【虎が強いのは元々強いからだ】という具合に、色情狂だから色情狂なのだ、としか描かれていない。実際にジョーはセックス依存症セラピーやらの経過でそれを理解するシーンがある(決して色情狂を克服する、自らのセクシュアリティを隠匿するなんてことはない)。そして、そこからの車を燃やすシーンはグッと来た。これってアナと雪の女王の自己を受け入れる描写と似ている。

 だらだらと書いてきたけど、最後にしよう。聞き手役のセリグマン、Vol.2の冒頭で童貞だということが判明する。高齢童貞で、もはや性欲には突き動かされないという告白もする。聡明なセリグマンはジョーを分析し、理解した気持ちになっている。だけど、最後の最後、もしかしたら俺も童貞を捨てられるかも!なんて思ってしまう。少し崩した言い方をしよう。

 

高齢童貞の自分のところに怪我をした痴女がやってきた!看病しながらいい雰囲気に持ち込んでみたらこんな僕でもヤレた!(出典:HUNTER)

 

 ってな感じだ。男はセリグマンみたいなもので、他人を理解した風な振る舞いをしてしまう。それも勘違いした理解をして。

 

 セリグマン自身、自分は性欲を克服した。自分を律したと語っているけど、実際にはそうじゃなかった。結局、ジョーをレイプ(という言い方がいいのかは疑問だけど)する。そして殺される。

 セリグマン、バカだなあと思ってしまうけど、そのバカさ加減を笑えることが出来るのだろうか。インテリ面して、分析、解釈して、したり顔の男って僕を含めて全世界に何人いるのだろうか。なんだかジョーよりもセリグマンの悲哀に心を揺さぶられてしまった…

 それでもセリグマン、最後の最後、幸せだったんですかね。童貞ソーヤング。

 一発ヤるまで死ねるか!一発ヤったら終わりか!オイ!オイ!オイ!!って童貞ソーヤングかよ。

 この映画、切り取り方によって、各々の感想が多種多様なものであると思うので、みんなの意見を聞いてみたいと思う次第です。もちろん、僕の感想も上記だけではないが、疲れてきたのでコミュニケーションに筆を置く、ということで…

 

 以下、グッときたシーン覚え書き

 

1)セックス・トレイン・キャノンボール

2)ハードSMの冒頭、プレイさせないプレイをさせるKの演出

3)アフリカンとの3P、黒人の怒張したペニス2本に挟まれるジョーの画

4)ゲンズブールの腹筋

5)ユマ・サーマンごっつええ感じ